たまにはワラクリを開いて、自分の人生について書いておこうと思います。
もう本当に、私的な文章です。
最近の人達は(私も含めて)文章を読まなくなったし、それならば自分のためにだけ書いておけば良いのですよ。
簡単です。

いや、むしろ文章を書くだけでメンドクサイヤツと思われる世の中になりつつあるかもしれません。
ただ脳の整理ツールとしてのブログ、ブレインログ、みたいな使い方が流行るかもしれん。

では本題に入ります。

中年の危機を迎えています。
表現が正しいかどうかは分かりませんが、きっとこれだ。青年、あるいは壮年の終わりがきている。
「ああ、もう、失ってくばっかりなんだろうなぁ」
という、諦め、展望のなさ、儚さ、みたいなのが押し寄せています。

これまでは、経験も増えて、体力もランニング等で鍛えていたので衰えはせず、望めば人間関係も増える、小屋などの自分の作品も増えていく。生きれば生きるほど、プラスプラス、まぁ別れはあるけれど、その経験も含めてプラスだと思えていた。

しかし、42歳を越えまして、足の靭帯が切れてしまったのも大きいのですけど、これから先は失っていく方が多くなるんだな、という気づきがありました。

と、まぁ、「いや、そんなことはないぞ、まだ若いじゃないか」と切り返されると思うのですけれど、こういう考えがよぎることこそが「中年の危機」と呼ぶのではないでしょうかね。

好奇心より面倒くささの方が勝る。
体力が落ちるし、消化能力・アルコール分解能力が落ちる。
新しい人間関係が築けなくなってくる。
新しいテクノロジーが使えなくなる。
時代の空気感が読めなくなる。
今まで自分の武器にしていたものが、崩れていくなぁと、
国に敗れてサンバあり、ピーピッピピー、ピーピッピッピーピー! みたいな気持ちです。
(いや、山河ありやろ!)

かたや、花とかを愛するようにはなってきてて、小説を読んでいて、食事も肉類を好まなくなってきた。
一人称も「わし」と言い出すかもしれない。間違って「たか」と言うかもしれないけど。

どうせなら理想の中年になりたいところだけれど、そうなるにはいろんな点が欠けている。分かっとる分かっとる、そんな準備はしてこなかったもんな。
配偶者もおらんし、核となる仕事もなく、これだ!という趣味もない(盆踊り・ダンス・ランニング・登山は靭帯が切れた時点で死んだ)。

ようやくコロナ禍が収束を迎えつつあるのに、気づけば自分だけが歳をとっていたような、浦島太郎に例えたいけど、竜宮城に行ってねーし、なんの物語も生まれん。

と、ここまではグチグチ、クサクサと文を運んでしまったので、すこし上向き加減のことを書いていくのですけどね、
まだ夢は描けている。
右足の靭帯なんかより、夢を失うほうが人間が腐る。
憂さ晴らしだけで生きたくはない。

小説を書いている。
1年半が経過して、分かってきたことも増えてきた。
小説家というよりは、ストーリーテラーとして自分を認識して、芸術性の高いものではなくて、クライアントのニーズに答えるような作品を生み出したい。
文章へのニーズはなくなってきているのですが、物語へのニーズは絶対になくならない。人間ってそういうものだ。

遊ぶ力が衰えてきて、それでもなお社会に存在したいなら仕事しかないとも思ってもいる。

脳が思考を止めぬ夜もあるし、ぜんぜん起きれない朝もあるし、どこにも出かけたくない昼もある。
だけど、文章だけはこんな風に世界の何処かに置いておけるから、便利な世の中になった。

そろそろ、オチに入らないと。
だけど特に面白いことは浮かばない。
これまで頼りにしてきた自分の資質が失われ、展望はないよって話だからな、
遺書みたいなオチにします。

サヨ、ナラ、

この世界が僕らにもたらす焦燥から逃れるように
夜空に向かって駆け出した。
(↑これはタナトスの誘惑ってのをパクってるんですけどね)

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投稿者: 石黒わらじろう

京都の古い民家で暮らしている。 趣味はランニングとブログと盆踊りを含むフォークダンス。 別名義で書いた小説は映画の原作として採用された。 自分で建てた小屋にて暮らしていたことがある強靭な狂人。 地球にも自分にも健康な生活がしたい。

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