えー、皆様、頼みます。

盆踊りは全国各地に色々ありますが、滋賀、京都、大阪の淀川流域、あと奈良などは江州音頭で踊るのがベーシックなのです。
そして拙者の認識では、江州音頭はあらゆる音頭の源流に近いところに位置している。
拙者も5年ほど前までは「江州音頭? なんじゃそれ?」と、アイリッシュ音楽やサルサミュージックなどと比べ、ダサいイメージを持っておったが、今では「江州音頭を知らぬとは、うどんを食べたことないのと同じレベルやな」と思わなくもないし、そもそもアイリッシュもサルサも日本ではマイナーだなと自省しています。
ですから、知らない方が普通。

で、そんな知る人ぞ知る江州音頭を拙者も唄ってみようかと思っているし、やめといたほうがいいかも、とも思っているので、自分の思考整理のためにこの記事を書きます。

動機

なぜ唄ってみようと思うのか?
この回答は「それが普通な気がしてきた」というふわっとしたもの。

盆踊りは本来、手作りでミニマムなイベントなのです。
町内にのど自慢がいて、生歌を披露して、太鼓くらいは用意して、シンプルにみんなで踊る。
それが昨今では、「盆踊りとはこうあるべきだ」「櫓、PAシステム、プロの音頭取り、屋台などなどがあるべきだ」と、膨らみすぎて、デブってて、動きにくい。頑張らないと開催できないものになっている。だから中止や廃絶に追い込まれる。
そこで原点回帰!
小規模でいいのだ、小規模で。動員数など競う時代じゃないのだ。

という志向で、自分がのど自慢の1人になればええんちゃうかな、とゆるい動機で唄おうかと思った次第。

あとは、踊ってて「この人、唄が下手やな」と思うことがあるけれど、「ほなお前、唄えんのか!」と言われたら、唄えん。
そういう情けなさも動機の一つ。

芸事の世界

ほな習えばいいんちゃうか? と思いきや、どこから入るか難しい。
拙者は芸事の世界に足を踏み入れたことがないので分からんけど、どうやら徒弟制度みたいで「ヤベェ、これは苦手なやつや」と思っている。

例えば、師事している人の盆踊り会よりも優先して行きたい盆踊り会があった時、迷わず行きたい盆踊り会に行くと思うんですが「弟子の癖にどういうつもりや!」となって、「ああ、不自由だな、唄なんて習わねばよかった」と後悔するのではないか?

徒弟制度である理由もよく分かるし、技だけを伝授してほしいなんておこがましい。当然だ。
しかし踊りが不自由になると本末転倒。
凝り固まった人間関係も、明文化されてないマナーに縛られるのも、すごく苦手だ。

誰かの弟子になる、会の一員になる。この際、守らねばならぬルールが存在するのは当然だし、ルールは遵守する。
だが往々にして、意味不明なマナーで縛られ矯正される。
そういう世界に向いている人と向いてない人がいて、拙者は全然ダメ。

というわけで、これは足を踏み入れるべきではないと、経験が言っている。

コントラダンスの事例

コントラダンスというフォークダンスがあるのだが、その際にも同じ志向になった。
このダンスが楽しすぎてもっと深く関わりたいと思った結果、音楽をやろうと考えたのだ。
拙者はフラットマンドリンを弾くことにして、一時期はバンドとして盛り上がったし、その波及効果は今もなお健在。
しかし、拙者自身はマンドリンを弾かなくなったんだよなぁ。

コントラダンスが途絶え、弾く動機がなくなった。
ダンスあっての音楽。
踊り子がいての音頭取り。

結局のところは、踊りへの情熱のようには演奏への情熱が燃えなかったというだけの話。
最終的には「演奏するより踊った方が活躍できる」という結論になった。
唄もそうなる可能性がある。

才能があったらどうしよう

でもなぁ、拙者の音頭がめちゃめちゃ上手かったらどうしよう?
才能を死蔵させるのは罪深いからなぁ。
盆踊り業界に貢献する逸材かもしれんし。

人前で唄うことに躊躇ない時点である種の才能があるし、声もデカい。
下手ならすぐやめたらいいだけの話だからなぁ。

案ずるより産むが易し

とまぁ、ここまで書くと「案ずるより産むが易し」という結論にしかならないな。
「やってみなはれ」だな。

とにかく個人的なテストを実施することにした。
10日間、毎日、江州音頭を聴いて、それでも興味が尽きなければ習ってみようと思う。

どうなるか、お楽しみに。

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投稿者: 石黒わらじろう

京都の古い民家で暮らしている。 趣味はランニングとブログと盆踊りを含むフォークダンス。 別名義で書いた小説は映画の原作として採用された。 自分で建てた小屋にて暮らしていたことがある強靭な狂人。 地球にも自分にも健康な生活がしたい。

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