昨年から動物を殺めまくっている。
ちゃんと食べているので、シメルやトメルという言葉を使うべきだが、過程としては同じだ。
ニワトリ、シカ、タヌキ、イタチ、ハクビシンなどの命を絶った、我が手で。
さして特別さを感じずに命を奪えるようになり、そして自分の命も軽くなっていく。
肉を食べる人ならば誰しもが間接的に動物を殺めている。
誰かが仕事としてそれを代行したのだ。
拙者は人に頼らず自ら行う自立的な人間というだけの話で、残忍でも、無惨でも、サイコパスでもない。
責任を果たしているだけだ。
むしろ前よりもモノの道理が分かったんじゃないかと思う。
すべては庭でニワトリを飼うところから始まった。
ヒヨコがイタチに襲われるので、守りたいがためにワナ猟免許を取った。
その結果、山にはシカを獲りに行き、庭のニワトリは育ち、それらは拙者の食糧となる。
シカは増えすぎている。
農作物は収穫量が減り、山の植物は絶滅の危機に瀕し、土地が荒れて土砂崩れの可能性が高まる。毒のある外来植物ばかりが増えたりする。
政治的には有害鳥獣駆除に報酬を出す対策をしている、シカはだいたい2万円くらい。
だがこの制度は正しいのか? と疑問に思う。
多くの猟師は報奨金をもらって、殺めたシカは山にポイ。
仕留めた場所が悪いのか、肉を持ち運ぶ体力がないのかは知らないが、聞くところによると8割のシカはただ殺されただけになる。
拙者は憤りを感じる。
殺めた以上は食えよ! と思う。
だから拙者のような料理もできる猟師が山に入り、できるだけシカを獲って、無駄なく料理をするべきなのだ。
拙者は猟期中、山にワナを仕掛け、かかったシカにトドメを刺し、その場で解体し、肉を持ち帰った。
シカの悲しそうな鳴き声や、光を失っていく瞳を覚たままで。
卵から孵したヒヨコの半数は130日ほど経つと、夜明けの頃にコケコッコーと鳴き始める。
拙者が眠り眼でふらつきながら庭に出て、雄鶏をなだめても脅しても、朝鳴きをやめようとしない。
こうして殺める日がやってくる。
最初の1羽をシメた時は1日中罪悪感に囚われたが、その肉の旨さを体感してからは、食糧獲得の順当な手段だと思うようになった。
5度目6度目と経験し、自分なりのコツを掴み、首をはねた後でも体が動くことへの気味悪さにも慣れてきた。
ラストダンス。脳の支配を解かれた体の躍動に、尊さと悲しさを感じながら羽をむしる準備を進めている。
弱肉強食だと思えば、オレはツヨイ、だから食う! と、自分の強さに惚れ惚れできるかもしれない。
多くの猟師はそういう雄々しさを持っているのかな、と思う。
しかし拙者は我が命も彼の命も同じだと思うし、これが日本人の考え方の主流だと思うんだよな。
いつかは同じく死ぬのだよ。
いやむしろ、我が肉体は感謝をもって食べてくれる人がいなくて、死して皮も名も残せない。
軽い命だ。
命を奪うことに慣れた、そして、いつか命を奪われることへの許容度が増した。
因果応報ってやつやんね。
そんな軽い命で書く文章に重みなどなく、価値などない。
だから僕は文章をやめた。
もう何も遺さない。
誰にも知られず、顧みられず、注目を浴びず、フォロワーも増えず、馬鹿なままで、鳥頭で、ただ生きることにする。
拙者はいつかラストダンスを踊るのだろうか、
脳が死してもなお、3時間くらい踊り続けられるように、体を鍛えておくよ。
誰か音楽を奏でてくれたまえ!
以上
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