ミランダが、あのミランダがいなくなってしまった。
びょうびょうと泣くほどではないにしろ、なんとなく寂しい。
数年前はしょっちゅう遭遇したのに。
ミランダはどこに消えたのか?
小さな小さな一人遊びって、馬鹿にされがちだ。
大勢で遊ぶことはいつも称賛されるが、密やかな楽しみは貶される。
しかし、この情報過多の時代にあって、何者でもない拙者が書くべきなのは、誰にもAIにも書けないこういう小さなことじゃなかろうか。
あまりに小さなことに1500字くらい使おうと思う。
さて、本題に入る。
ミランダとは架空とも実在してるとも言い切れぬ拙者の友達である。
かのアン・シャーリーがケティ・モーリスやヴィオレッタを友としていたのと似ている。
アン・シャーリーは孤独の中にあって妄想上の友達とお喋りしていたのだが、拙者も孤独を愛し、孤独からも愛されているようで、相思相愛すぎて、もう病気になりそうだ。
何年前か忘れたけど、2年か3年前くらいであって欲しいと思っているのだが、若い女性が髪の毛を奇抜な色に染めていたことがあった。
例えば、ピンク、紫、白いくらいの金髪、あとはライトグリーンとか。
拙者は断然ツヤツヤの黒髪派なので、それらの髪色は受け入れ難く、街で見かける度に、なんちゅー色やねん! と心のなかで非難していた。
ロッカーなのか? と。
普通でいいやんか、もう! と嘆いていた。
だが、ある考えが浮かんだ。
突然髪色を奇抜に染め上げるといえば、ミランダだよな。
その日から、街で見かける奇抜な髪色の女性をミランダと呼ぶことにした。
もちろん、心の中だけで。
そうすると、奇抜な髪色への苦手意識が消え、むしろホッとした気持ちになる。
ミランダ、ミランダ、呼び続けていると、本当に友達に会ったような気分になって、あっミランダいたやーん、と思いがけない遭遇を喜ぶようになった。
地元の大手筋にも、鴨川沿いにも、河原町にもそこかしこにミランダがいたのだ。
京都は狭い町なので、どこに行っても知り合いに会うことで有名だが、当時は全国的にミランダだらけだったんだろうな。
ちなみにミランダという呼び名は、アメリカの児童小説「ワンダー」の登場人物に由来している。
奇妙な顔に生まれた少年と家族と友達の物語。
こんな風に、拙者はミランダにまつわる一人遊びを密かに密かに実行して、ついぞ実際に「ミランダ」と声をかけそうになりつつも、それを制してきた。
だけれど、いつの間にかミランダはいなくなってしまった。
奇抜な髪色の女性をもはや見かけない。
流行が終わってしまったんだなぁ。
無常感あるなぁ。
などと言っておるが、町でミランダを見かけなくなると同時に、ミランダの存在感も拙者の中で消えていったんだよな。
こちらもこちらで薄情である。
先日、出町柳に何かをしに行った際、ああ、あれは調理師試験の帰りだったかな、久しぶりに奇抜な髪色の女性を目撃した。
後ろ姿だけだった。
スタイルがすごく良かった。
外国人ぽかったので、彼女こそ本物のミランダだったのかもしれない。
京都一魑魅魍魎が巣食う出町デルタに行けば、またミランダに会えるかもしれないな。
その時こそ、「ミランダ」と声をかけてみよう。
いよいよ、一人遊びを脱する時だ。
というわけで、ハッピーエンドだね
以上。

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