月: 2022年6月

  • 修行僧こそ幸せ

    修行僧こそ幸せ

    未だ、何が幸せか? どう生きるべきか? よく分からない。
    分かっていることもあるし、それを説得力を持って語ることもできる。
    たとえば、幸せなんて自分の意志ひとつだよ、とか。
    幸せは外部から与えてもらうものではなく、自分にしか与えられない、とか。
    「君を幸せにするよ」なんて言葉は全部嘘っぱちだ、とか。

    しかしまぁ、こういうことを語ったところで、あるいは聞いたところで、「まぁ、そやろね」くらいの感情しか起きない訳です。

    仮に、私が成功者と呼ばれる人で、幸せそうに振る舞っていて、「〇〇すれば幸せになれる」と語ると、誰かが「ふむふむ」と言うかもしれんけど、そこにはやはり嘘がある。

    価値観が振り子のように揺れ動く。
    喉が乾いたら何よりも水が欲しいけど、それが満たされたらそれ以上の水はいらない。
    孤独の中にあれば、誰でもいいから人と喋りたいと思うかもしれんけど、いざ喋ってみると誰でもいいというわけじゃないと気づく。

    と、こんな風に、未だ分からぬ。

    ただ、今日の私は、いや、今の私は、修行僧みたいに生きるのがむしろ幸せなんじゃなかろうか、と思っている。
    もしかすると、理想の姿はそっちなのかもしれん。
    ミニマリストに通じるところがある。
    まず、豪華な食べ物とか欲してないし、酒のんでウェイウェイするのはサルっぽいと思うようになったし、外部の刺激によって感情を揺さぶられるのが虚しいというか、ありがちというか、バランスをとるのが難しい。

    ちょっと、インターネットにつなぐだけで、ガシガシ欲望を揺さぶられる。それってやっぱりしんどいんじゃないか? 頭がクール時は「そんなものいらねぇ」と思えるかもしれんが、ぼぅとしてる時は「それがあったら幸せかもしれん」と、心に支配が及んでしまう。

    先週なんかは、毎日5000円くらいの買い物を積み重ねたんですけど、いざ商品が手に入ってしまうと、あのキラメキは幻想だったことに気づく。

    自分で自分を支配している感覚が大事なんじゃないか。

    ここ半年くらい、足首の靭帯が切れていたせいで長距離の歩行ができなかったのですが、ようやくリハビリ期に移ってきた。
    昨日は散歩をしたのです。地味に1人で。
    木々の緑とか、そのゆらめきとか、吹き抜ける風とかを感じようと思って。そして実際に感じて、「やっぱり、こっちのほうが必要だな」と実感したところです。

    ふとスマホを手にすると、今ここにはない何かに感心を奪われすぎる。
    これじゃあ、幸せにはなれんな。

    ・自分を支配している感覚
    ・自分に合った生活で自分らしく生きること

    まずはこれを大切にしようと思っております。

    この文中にオチはないのですが、
    「結局、自堕落な生活しとるんかーい!」
    という実生活が、オチ。

  • 【Neo風物詩】大文字サイレント盆おどり(2022.08.16)

    【Neo風物詩】大文字サイレント盆おどり(2022.08.16)

    今年もやります、送り火の日のサイレント盆踊り!
    2021年にあらゆる盆踊りがコロナで壊滅する中、京都のお精霊さんを慰めるために、4人の凡人があの場所に集結し、踊ったのです。
    夢の中にいるような、物語の中にいるような、そんな記憶がある。

    去年は初回ゆえ実験的に行いましたが、今年は末永く残る京都Neo風物詩とすべく、踊り狂いますのでどうぞよろしくお願いします。

    実施日:2022年8月16日(火)
    実施場所:出町デルタ
    時間:19:00~20:00
    お布施:500円くらい

    持ち物:汗かいたときの着替え、有線イヤホン

    踊りに参加する方は、事前に連絡してもらうと色々とフォローができます。(メール
    初心者でも大丈夫。見学OKです。

    踊り曲目:江州音頭、河内音頭(手踊り、マメカチ)、炭坑節、郡上おどり(春駒、かわさき)、ドンパン節、ダンシング・ヒーロー(予定)

    踊りに参加すると異世界トリップしますので、万人にはオススメしません。輪の内と外では世界が違うのです。

    京都の歴史に自分を刻む覚悟で、踊りを先鋭化させていきます。
    今年のテーマは破壊的パフォーマンス。
    無理に人を集めなくても、人は後からついてくる。

    【同日開催】大文字を映した酒を呑む会

    踊り終わった後に、ちょうど大文字の点火が始まります。

    京都の言い伝えで、送り火を酒の入った杯に映し、それを呑むと無病息災だそうです。
    本当に映るのか、どうすれば映るのか、街灯が邪魔になったりせぬのか、色々と分かりませんが、とにかくやってみます。

    あなたが今まで味わったことのない面白さがここにある。

  • せめて師匠と呼ばれたい

    せめて師匠と呼ばれたい

    生きるのがたいへん難しい社会になってまいりました。
    結婚はできない、自分に合ったコミュニティは作れない、ネット上で注目は浴びれない、仕事はやたら疲れる。
    もう生き地獄でございます。
    いや、それは言い過ぎた。

    私が思うに、今の社会は「推し活時代」なのかなぁと思います。
    アイドルや著名人、インフルエンサー、アーティスト、クリエイター、ゲームプレイヤー、絵師、等々、自分の好きな人の情報を得るのにこれほど素敵な時代はありません。
    私も色々な女性を”推し”ているのですけど、YouTubeやTwitterで彼女らの情報を追えて、頑張ればコメントにレスポンスをいただけて、幸せな瞬間が訪れます。

    ちなみに私は、清水あいりさん、仲本愛美さん、山本英さん、上田桃夏さん、ナミノリさん、等を推しています。

    また、”推す”ことによって、同じようなフォロワーとの共感を得る時代なのだと思います。
    「同じくファンです!」って時に、ときめきがある。
    私の場合は「森見登美彦作品が好きです」と言われると、ときめきが訪れますね。「同じ世界を見てるんだ!」って思います。

    このように、ネットコンテンツが豊富になり、配信者と直接繋がれる、頑張れば双方向のやり取りができる。望めばファン同士の交流できる。これを推し活時代と呼ぼうと思います。

    しかし、裏を返せば、プロたちが良質なコンテンツを配信し続けるわけですから、自分が注目を浴びることを望むと、ものすごく大変です。
    たとえば、Instagramなんかをスクロールすると、美女が自身の顔を投稿していて、その下に素人が顔写真をアップしてたら勝負にならないんですよね。悲しいけど。とても悲しいけど見劣りする。

    身近な誰かと仲良くすればいいじゃないかと思いきや、身近な誰かもネットの向こう側に夢中だったりしますからね。
    興味関心が奪われて、素人じゃ見向きもされない。

    マザー・テレサが、愛の反対は憎しみではなく無関心、とかって言ったそうですが、愛がネットに奪われているなぁと感じております。

    そんな社会でみんな藻掻いていて、綺麗な写真を撮ろうとしたり、名言っぽいものを吐いたり、小説を書いたり、YouTubeを上げたりするのですが、アテンション・エコノミーに飲み込まれて、注目を浴びるのは難しい。

    だから、コミュニティが必要だと思っていたのですけれど、ゆるく人を集めても、推しを推すことの熱狂には勝てないようだ。なかなか人が集まらなくなってしまった。
    私自身もただの雑談を求めている訳では無いし。

    ですから、ひたすら「推し活こそ幸せだ」って思えたらいいんです。
    「俺なんて推しの養分だぜ」って。
    それが幸せな生き方です。
    YouTuberを追えばいいんですよ。サロンとかに課金すればいいんですよ。

    ですけど、私はそこまで推し活にハマれないタイプのようで、それだけでは満足できない。
    ある程度の注目の授受というか、フェイス・トゥ・フェイスというか、「面白かったよ」と言われたいし、愛がネットに奪われすぎるのは健全ではないと思う。

    で、若い人はアテンション・エコノミー乱戦時代に打って出たらいいと思うんですよ。
    歌ったり、踊ったり、動画編集したり、特殊スキルのコンテンツを発信すべきだと思います。

    しかし、私のようにそれなりの歳になってしまったからのう。
    打って出るのはしんどいのう。
    小説を書いてはいるが、世はコンテンツ乱戦時代、読む時間を奪えるほどの実力はないわい。

    せめて、数人から師匠と呼ばれる存在にはなりたいのう。

    誰にも注目を浴びれぬ中年にはなりとうないし、
    金で注目を浴びるのは下品だし、
    誰とも関わらず小屋で密かに暮らすのもできなかったし、
    せめて師匠と呼ばれたい。

    最悪の状態はネトウヨみたいになることだからなぁ。
    何かを叩くことでしか仲間意識が感じられなくなったら、マジで終わりだ。

    で、
    さて、
    さて、
    何の師匠になら、なれるの?

    それが問題だ!

  • 交流業から撤退します

    交流業から撤退します

    思うところがあって、幹事業というか、交流業というか、コミュニティ事業というか、人を集める企画をやめようと思います。
    本質的には向いてないことに気づきました。

    「楽しさ」を求めていたのです。
    究極の楽しさです。
    それはやはり、人が集まってワイワイすることを理想としていたし、実際にたくさんのことをやりました。
    BBQ、酒場、人狼会、ボドゲ会、フォークダンス、読書会、登山会、ランニング会、キャンプ部、etc.

    おかげさまで、楽しき思い出は沢山あるし、色々やったということにおいては充実してたし、悔いのない過去だと思います。
    あの日はあんな感じに楽しかった、といっぱい語れます。
    語らないけどね。

    なぜやめようと思うか、その理由は、
    おそらく、1つじゃないのですけど、
    私の本質的な性格は、人との交流を求めていない、という衝撃の事実が浮かび上がってきたのです。

    これは他者との比較によって分かってきたのですが、
    お喋りしたいという欲求があまりないし、もちろんつまらん話を聞くのも好きじゃない。
    うちの母などは喋れば喋るほど元気になります。
    人懐っこい人っているんですよね、楽しそうに喋って、人との交流が大好きな人がいる中で、私はぜんぜん違う。

    実際に、実家の商店で飲み会が行われたりするのですが、それに参加する機会があっても、サッと帰りますからね。
    たぶん交流が好きな人なら、とにかく人の集まりには居残ると思うんですよ。
    これは、帰って小説を書きたいという欲求があるんですけど、小説を選ぶ時点で、交流は二の次なんやなぁと実感しちゃいます。

    そんな性格の私が楽しさを求めて人を集めていたわけですが、本質的には交流を求めてないので、肝心な部分が欠けた企画になるんですよね。
    人を満たせない。

    それでも何かをやりたがって、企画を立ててきたのは、妄想力というか、想像力というか、これをこんな風にしたら楽しそう、と思い浮かんでしまって、過去の経験により行動力も作法も磨かれているので、やっちゃうんですよ。
    でも、続かないんですよ。

    というわけで、続かないし成果は出ないし、人にはがっかりさせてしまう訳ですね。
    ですので、交流事業は我が人生から切ることにしました。

    交流を求める時は、徹底的に外部に頼ることにします。

    私の妄想力や想像力は、小説に重心が移っていて、交流企画を思いつきはするのですが、すぐにしぼむようになった。
    小説も含めて、ものづくりとか創作の方に、時間と力を使っていこうと思います。
    クラフトマンなんですよ、本質は。だから小屋とか、Webサイトとか、料理とか作れるんですよ。
    「人を楽しませる」という志向は変わっていない。
    場を作るのはやめて、モノかコンテンツを作ろうって話です。

    私はね、作品をね、作りたいタイプでね、こういうタイプが交流事業をすると、参加者までもを型にハメちゃうんですよね。自由な動きを許容しない感じ。マナーの良い会にはなるけど、ダイナミズムが生まれなかったかもなー。

    この事実に気づくのに20年くらい費やしてしまったな。
    若いと得意じゃなくても頑張れたりするんだよなぁ。
    楽しい思い出が残っているので、頑張って良かったんですけど、これからはクラフトマンとしての異常に高い能力を活かして、生きようと思います。

    wishigrow、ここに死す。
    2022年6月4日

    新しい名前は、えーっと、
    ドスケベ丸、にしようかな。