カテゴリー: 読む価値のない話

  • ゼロ貯金戦略

    ゼロ貯金戦略

    今日は「ゼロ貯金戦略」について書きます。

    私はぜんぜん貧乏でどうしょうもないのですが「うるせぇ、今は小説を書くんだ!」と、あまり働かずに、時間を空けて執筆に投入しています。

    先行きが不安になることもあるのですが、そういう戦略だ、すなわち、ゼロ貯金戦略だ、と頭をバグらせてなんとかやっています。

    貯金がゼロになるまで、労働時間を増やすことなく表現活動をやり尽くそうと思うのです。半年はなんとか生きていけると思います。

    半年後はどうなっているでしょうか?
    知らん。

    まぁ、コロナですからね、ジタバタしないでおこうと思う。

    対面交流こそ我が領域だと思ってきたし、盆踊りやフォークダンスが我がフィールドだと思ってきた。そんな生き方はコロナと相性が悪すぎる。

    ですから、とりあえず小説を書いて、賞に応募する。
    で、1つの賞だけじゃダメだと思ってきていて、3発くらいは打たないといけないと思っています。
    やっと長編小説の書き方が分かったレベルですから、今のレベルで新しい物語を生み出したい。

    いや、しかし今後は、もう少しペースを落として、じっくりと向き合いたい。長編を書き上げられるか不安すぎて、焦って書いたからめっちゃしんどかった。次は悠々と書きたい。

    とにかくこんな風に毎日ブログを書いていますけれども、結局は小説を書いてますって書くしかないくらいに、やることがないわけですよ。
    新しい刺激がないのです。
    ご飯を食べて、ランニングして、ちょっとだけ仕事して、酒を飲んで、あとは小説という日々です。
    面白いことをやろうとしても、コロナのせいで盛り上がりにかけるんですよね。
    これまでの人生で最もつまらない日々なのかもしれない。せめて小説くらい書かせろと思います。

    貯金がゼロになるまで小説を書く。そのくらいの狂気がこそ必要なのだ。
    背水の陣。

    貯金が底をつくまではなんとか生きようと思う。
    後は野となれ山となれ。

    以上

    (17分)

  • 書いた小説が幼稚で恥ずかしい

    書いた小説が幼稚で恥ずかしい

    今日は再び「幼稚さ」について書きます。

    身悶えしそうなくらいに、恥ずかしい。
    これは残念だ。
    自分が生み出したものが幼稚なこと、幼稚だと思われること、それでも評価を期待すること、それらが恥ずかしくて、背中がすくむ。

    ここのところ小説を書いておりましたが、8万字に近づき、一応ストーリーとしては、ラストまで走らせた。

    完成度はともかくとして、条件をクリアーして新人賞に応募してやろうって思ってこれまでやってきた。

    だけれども、いざここまでくると、こんな幼稚なものを何かに送ることが恥ずかしくなってきたし、もっと完成度が上げられないのかとも思うし、どうにももどかしい。
    こんなはずではなかった。

    ゴール!フィニーッシュ!って思える日がくると空想していたのだけれど、小説はマラソンとは違い、後から修正が可能だったのだ。

    送るんです、こうなったら絶対に送るんですけど、5行くらいでポイってされるのが怖すぎて、いや、そんなのは目撃しないから、別にいいのだが、そうなった時の頑張った自分の哀れさを想像してしまって、どうにも気持ちが高ぶらない。

    はぁ、幼稚だと思われるのが嫌だ。

    で、これは乗り越えるべき感情なんですけども、歳を重ねるにつれ、情けなさがアップするようで、乗り越える力も上げていかなければいけないようだ。
    だから、チャレンジできなくなっていくんだろうなぁ。

    まだまだ頑張るし、チャレンジもするんですけれど、自分で生み出したものが稚拙で恥ずかしい、うぅぅってなってるのが現状です。

    とても頑張ったのですよ。小説を書くことを。いろいろ分かってきたこともある。小説を書く上での基礎体力的なものや、習慣のようなものはできたと思う。

    でもでも、結果が出るものであるし、文の束は目の前にあるし、自分のために書いたものではなくコンテストに応募するために書いたものである。それが稚拙だという現実を突きつけられて、身悶えしてしまう。

    くぅぅ、面白いと言ってくれ、とても面白いと言ってくれ、可能性はあると言ってくれ、伸びしろがあると言ってくれ、くぅぅ。

    今はこんな感じです。

    以上

    (24分)

  • 自分の幼稚さが嫌になるから

    自分の幼稚さが嫌になるから

    今日のテーマは「文章の稚拙さや自分の幼稚さ」について。

    こうやって、ブログを書いて読み返す、あるいはTwitterを見返す、また自分の書いた小説を読み直す、こういうことをすると、

    自分って、幼稚だな、ほんまに41歳なんか?

    って思ったりするわけです。
    悲しい。ため息が出る。

    なんだろうか?大人になるためのトレーニングが積めなかったのだろうか?
    あるいは大人行きの線路に乗れなかったのか?
    もしくは、大人になる山道の途中で転落してしまったのか?
    知らね―けども、41歳ってこんなレベルなのか?って思います。

    しかし、無理やりに大人ぶってもしょうがないと思うのですよ。
    素直に出てくる言葉を並べる方針を曲げたくはない。
    小難しいことを書きたくない、

    例えば、、
    小生は人生の道半ばにして苦悩する毎日であり、時折それが頭痛を発症するに至るのだが、それを見て見ぬ振りをするのである。

    とかって書くと、ちょっとは41歳っぽくなるのでしょうか?
    知らねーけども。

    幼稚さを否定せず、幼稚な自分を許容しようと思うのです。認めよう。
    ただし、「あいつは幼稚だけれど、◯◯はすごいから、しょうがない。」というこの〇〇が欲しいです。

    この〇〇だけを頼りに大人として生きていきたいです。許されたいです。

    めっちゃ旨いラーメンを作れるとか、色んな山道を知ってるとか、楽器が弾けるとか、こういう感じで一目置かれたいです。
    文章が幼稚な代わりに。
    文章が幼稚ってことは、性格が幼稚ってことですからね。
    もう、バブー。

    盆踊りとかやると、確実に一目も二目も置かれるんですけど、、、その機会がないからさぁ。
    小屋暮らしはちょっと一目置かれたけど、もう屋敷を借りてしまって、小屋暮らしと言い張れなくなってしまいましたし。

    くそう、幼稚な上に、特技もない。
    悲しいよう。バブバブ。

    というわけで、幼稚さを補うような、稚拙さを覆い隠せるような、そんな圧倒的な技術というか、パフォーマンスというか、力というか、そういうモノが私は欲しい。

    まぁ、こんなことを言いながら地道に何かを積み重ねることを嫌っているので、どうしようもないんですけどねー。

    苦悩の毎日は続く。

    以上

    (20分)

  • 瞑想は向いていなかった、なぜならば、、、

    瞑想は向いていなかった、なぜならば、、、

    今日は「瞑想しない」について書きます。

    つい先日にせっかくコロナですから、悟りでも開きましょうかねとのブログを書いたのですが、これは間違いでした。私は瞑想に向いていない。

    瞑想しよう、瞑想しよう、瞑想しようと思いながら生きたら、てきめん頭痛がしてきました。どうも血の巡りが悪くなって、脳に血液が流れないっぽい。

    やり方が問題だったのかもしれませんが、瞑想に向いてないと判定しました。

    ちゃんと考えると、昔からじっとしているのは嫌いだったし、今の趣味などを考えても分かる。
    登山、ランニング、ダンスなど、私が楽しいと思うことはいつも体を動かすことであった。だから私は瞑想して幸せになれるはずがない。

    私は仏陀タイプではなかったのだ。
    空也上人タイプであったのだ。
    あの、踊り念仏の空也上人です。

    瞑想なんてする必要はなくて、ただ音楽をかけて踊れば良いのですよ、私の場合は。そうしたらトランス状態に入れますから、色即是空ですよ。

    逆に椅子に座ったりせず、寝る時以外は動き回ってやろうと思っているところです。それが私の生きる道。

    自分の体質や志向にあった方法があると思います。とにかく瞑想はやめました。

    私は動き回るタイプでした。

    だから、小説を書くのも向いていないのだと思う。さっさと書き上げてやめよう。

    いま、このブログはスタンディングで書いています。
    横から見るとキョンシーのようなスタイルかも。お札は貼ってませんけど。

    これは、腰が痛いという要因もありますので、瞑想とは関係ないです。

    瞑想はしません。マインドフルネスダンスをします。

    以上です。

    (25分)

  • せっかくコロナですから、悟りでも開きましょうかね

    せっかくコロナですから、悟りでも開きましょうかね

    今日は「悟り」について書きます。

    考えれば考えるほど「よろこび すくなし」。
    コロナですからやっぱり喜びが少なくなっている。

    「頑張ろう」「気の持ちようだ」「コロナが明けたら楽しもう」なんて言うものの、やはり難しい。

    小説を読んで楽しんではいますが、昨日なんか午後からビールを飲んでグダグダになって寝て、夕方に起きてまたワインを飲むという廃人のような時間をおくってしまった。大丈夫か、俺!

    午後のビールの飲み方は走ってからなのでガツンと急速に酔っぱらい、夜はバニラアイスと赤ワインを交互に口に運んで麻薬的な味わい方をした。
    アルコールは体を壊すからなぁ。もうやめたい。依存症じゃないかと思う。

    依存症と言えば、スマホもそうで、TwitterとFacebookと小説投稿サイトを行ったり来たりしている。餌を探すアリのように彷徨っている。

    SNSのどこにに幸せがあるというのだろうか?
    本来は何を満たしたいのか?
    いいねボタンで満たされる幸せがあるというのか?

    なんかこの、何を満たすためにやっているのか分からないまま行動している自分が嫌いだ。

    てなわけで、酒やSNSで何かを満たすのはやめる戦いをしようと思うのです。

    じゃあ、どうすれば良いのか?

    例えば、「居住まいを正しただけで幸せを感じる」とか、「瞑想しただけで幸せを感じる」とか、こういう状態に自分を持っていけないだろうか。

    他者や物品で幸せになろうとするのは、依存状態を招くわけですよ。じゃあ何にも頼らずに幸せになろうとするならば、ただ姿勢を正すとか、瞑想するとか、お掃除するとかで幸せを感じなければならない。

    、、、こんな状態になったとしたら「悟り」ですよね。

    これはマズい。コロナのせいで思わず「悟り」を開いてしまいそうだ。

    私は怖い。

    自分の内なる声に耳を傾けすぎて、ロード・オブ・ザ・リングのゴラムみたいになったらどうしよう。

    「怖いよ、愛しいしと」

    明日から、魔法の指輪をはめているかもしれません。

    以上

    (30分ほど)

  • 30代でコンプレックスは解消しておこう

    30代でコンプレックスは解消しておこう

    今日は「コンプレックス」について書きます。

    あなたはコンプレックスを自覚することがありますか?

    そもそもこのコンプレックスという言葉、日本語では間違った使われ方をしているらしい。私が言いたいのは「劣等感」についてです。「劣等感」という言葉はちょっと語感が強すぎる。コンプレックスとカタカナにすることによってマイルドになる。日本語の不思議。
    「あなたには劣等感があるでしょう?」と言われたら「何だとこの野郎!」って言いたくなるけど、
    「あなたにはコンプレックスがあるでしょう?」と言われたら「まぁ、誰にでもあるよね」と言えるかもしれない。
    そんな感じ。

    ということで、コンプレックスですけど、誰しもが持ってるんじゃないかと推測しますがいかがでしょうか?
    「私は持ってない」という人がいるのであれば、とても平和でよろしいと思います。

    体型だとか、容姿だとか、田舎育ちだとか、貧乏だとか、たいていの人が思春期に傷を負い、コンプレックスを持って大人になっているのではないでしょうか。

    私はコンプレックスの塊、敢えて言うと劣等感の塊でした。球技が苦手だったし、勉強は嫌いだったし、人に評価される特技もなかったし、下を向きっぱなしの学生時代を過ごした。オタクにならざる負えなかった。
    暗い過去と暗い未来しかなく、あるのは暗い現在だけ。ぜんぶ暗いやないか!

    私が思うに、コンプレックスとは直接に戦ったほうが良いと思いますね。その方がふんわりと軽く生きられると思います。
    30代のあたりに、コンプレックスを解消しておくべきだと思う。

    このタイミングで解消できなかったら、いやーなおっさんになってしまって、いやーなジジイになるんですよね。

    やけに支配的なおっさんやジジイが現れたら、だいたいコンプレックスを抱えたままその年齢になってしまったと思って良いです。

    この人はお金もあるし、地位も高いのに、なぜだか非難や批判が多いとか、やけに目立ちたがり屋であるとかいう場合にはコンプレックスが解消されていない。持ったまま生きている。

    コンプレックスを抱えたまま、その歪んだ心で頑張るという方法もあるとは思うのですが、それってあまり幸せにはなれない方法だと思います。どうしても解消でなかったらしょうがないですけどね。金や地位を振りかざす生き方が良いと言う人もいる。

    さて、私が最も強くコンプレックスを抱いていたのは病弱さだったと思います。病弱コンプレックス。

    幼少期より喘息がひどくて、同級生達と比べぜんぜん活動できなかったのです。「原始時代だったら死んでるな」「現代じゃなければ生きる価値ないよな」と思いながら生きてきた。

    ですけれど、コンプレックスをコンプレックスのままにはしておきませんでした。得意を伸ばすより、苦手を克服した。

    例えばランニングをするようになって、これだけはずっと続いてて、かれこれ10年以上になる。これは同級生達と速さや距離を比べると、上位3人の中には入れるのではなかろうかと思う。

    あるいは、小屋で暮らしたのも生きる力を認識したかったためだと思われる。近代的な生活じゃなくても生きれる自分を証明したかった。

    これらの行動により、病弱コンプレックスを解消したのです。前よりも心が軽いし、前よりも挑戦的な人生を生きれている。

    まとめに入りますと、

    若い方は30代あたりでコンプレックスを解消しとくのがオススメです。これには戦いが待っていますが、頑張って下さい。

    40代より上の人でコンプレックスを持っている人はどう戦えばいいのか知りません。他人より自分が優位だと感じたくなる行動に気をつけた方がよろしいかと思います。

    なぜかエラそうなおっさんやジジイに出会った場合は、「ああ、この人はコンプレックスを抱えたままこの歳になってしまったんだ、、、」と温かい目で見守りながら無視してあげましょう。あなたの敵はその人ではないのです。

    心に刺さったトゲを抜きましょう。そして軽い心で生きていきたいですね。

    以上。

    20:35(29分、1555字)

  • 小説を書くのはあれと似ている

    小説を書くのはあれと似ている

    今日は「小説を書くのはあれと似ている」について書きます。

    皆さんはいかがお過ごしですかね?

    私の住む京都では5月末で緊急事態宣言が解除されるかと思いきや、延長されるようです。いつまで延長されるのか情報を追うのが意味ないと思うくらいに何もかもが信じられなくなっています。

    確か、6月の何日かに盆踊りの情報があったんですけれど、あれも中止になるのかな?覚悟はしていたことですけどね。

    そういう世の中で、いわゆるニューノーマル、新しい生活様式は確立できましたでしょうか?

    私はダンスを失い苦悩しておりましたが、小説を書いて、小説を読むという新しいスタイルを確立しつつあります。あと、この、無駄なブログを書くというのも新しいスタイルです。

    で、小説を書いているのですけれども、とてもしんどいんですよね。このしんどさは、マラソンや登山に例えるとスッキリきます。

    とにかく書くのですけど、いつになったら終わりにたどり着けるのか分からない。走り出してもなかなかゴールにたどり着けないマラソンに似ている。

    小説は終盤になるにつれて盛り上げていかなければならない。マラソンも終盤にしんどくなるのが似ている。

    小説にも基礎体力に似た、基礎的な文章打ち込み力みたいなのが必要っぽい。書こうと思っていることがあっても、それが途方もなく時間がかかりそうなら、それを避けたくなるんです。文章を打ち込むのが早ければ、立ち向かえる。マラソンも基礎体力がないと完走できない。

    あとマラソンに似ているのは、私がどれだけ頑張っても東京マラソンで1位に輝いたりはできなことだろうか。小説で何かを受賞するのはものすごく遠い。

    でもね、私がプロ野球選手になる可能性はゼロですけど、小説家になる可能性は5%くらいはあるはず。いや、小説家になれなくてもいい、1冊だけでいい。これは叶うかどうかは50%の可能性はあるはずだ。

    あと、小説は個人技だという点、チームワークが必要ないのはマラソンに似ている。だから小説は野球にもサッカーにも似ていないのだ。そうだ、私はチームワークが必要なことはすべて苦手なのだ。

    私は小説に向いている。
    私は小説に向いている。
    私は小説に向いている。

    自己暗示。

    まぁ、要するに、コロナの緊急事態宣言で自由が奪われていますけれども、私はまぁまぁ有意義に過ごせています。

    小説を書いて、小説を読む。

    酒も飲む。

    あと、読書会も開く。

    なんとか、頑張りましょう。

    以上です。

    (20分、1006字)