投稿者: 石黒わらじろう

  • 登山用の靴

    登山用の靴

    そろそろ登山に良い季節になってきた。
    去年は靭帯が切れていて低山しか行けなかったが、今年は登る機会がありそうだ。
    そういえば靴はどんな状況だったっけ?

    これまではランニングシューズ、もしくはトレランシューズで登山をしていた。
    モントレイルの赤いやつを履いていた。
    いつから履いていたかなぁ。もう7・8年前じゃなかろうか。

    登山というとほとんど比良山で、たまに渡渉をせねばならぬ時に、この道は水に濡れるからダメだ、と引き返すくらいで、困ったことはない。
    拙者は登山への志向が登山とトレランの中間タイプで、できるだけ速く遠くまで行きたいけれど、ご飯はゲルとかで済ましたくなくてお弁当を持ちたいタイプ。荷物は最小限にするが、ご飯だけは最小限にしない。カップラーメンも食わん。
    トレランチなタイプだな。

    だから再び、トレランシューズを買おうかと思った。
    トレランシューズは、登山靴と比べても、ランニングシューズと比べても安めの設定だと思う。
    種類もどんどん増えている。色んな志向があるみたい。
    ロードも走れて、トレイルも行けるのが拙者向きだと思う。
    たしか、最適なやつがあったはず。
    だけど調べるのが面倒くさい。
    あと、フィッティングすべきだよな、どこかお店に行かねば。
    それも面倒くさい。

    めんどくさがっているうちに、新しいアイデアが浮かんだ。
    それは足袋である。

    最近は足袋型のランニングシューズで走っていた。
    ペラ底シューズなので、足首の関節にダメージがくる。ふくらはぎも痛くなる。
    ペラ底シューズはダメだと思った。

    しかし、色々調べると、ダメなのはシューズじゃなくて、拙者の走るフォーム。
    クッションの良い靴だとデタラメなフォームでも足を保護してくれるが、ペラ底だとダメージを受ける。
    身をもって知った。痛みを持って知った。

    こういう時、どういう判断をします?
    A.クッションの良い靴を選ぶ。
    B.ペラ底シューズでフォームを正す。

    と、二者択一っぽくしましたけど、両方買って、交代交代で走れば良いと結論付けた。
    長距離走りそうな時はAで、短めの時はB。
    最近はそうしている。

    こういう考え方をするに至ったので、足袋で登山したらどうなのだろう? と考えるのは自然なこと。
    危ないかなぁ、どうかなぁ?
    と、心配したけれど、そういえば修験者は白足袋で山に入っている。
    (昔は一本歯の下駄だったのかも)
    というわけで、いけそうだ。

    買いました。

    地下足袋にも色々とグレードがあって、ペラっとしたものから、エアーが入っているものまである。
    今回買ったのは中間。エアーまではいらないけれど、多少の衝撃吸収素材は含まれているもの。
    ペラ底シューズだと石の道とかはすごく足裏が痛いのだが、これならちょっとマシ。
    足首も少しは固定されるので、登山に向くのではないかとやや期待。
    水には弱そうだし、上からの衝撃にも弱そうなのがデメリットかな。

    実際に登山すると痛い目に遭うのかもしれんけど、どうしてもやってみたい。
    やってみたら感想を書きますので、乞うご期待。

    以上。

  • それならいっぱい持ってるぜ

    それならいっぱい持ってるぜ

    昨日、自分に足りないものを考えだすと不幸の入り口に近づいてしまう、てなことを書いたのだが、これによって気づいたことがある。
    じゃあ、足りないものじゃなくて豊富なことを考えればいいじゃないか、と。
    そしてその豊富なものを人に提供するのが幸せに近づくコツなのではないか、と。

    な、なんと、幸せな世界が広がっている!
    と、一旦は思った。

    しかしこれにより問いが発生する。
    自分に豊富なものとは何なのか?
    それをどうやって発見すれば良いのか?
    豊富だとしても人が欲しがらなければ意味ないのでは?
    自分に豊富なのか、自分の持つ資源によって豊富なのか?
    などと、考えることがまた増える。
    複雑である。

    ちょっとづつ見つけるしかないな。
    例えば、拙者は周りの人より人を誘うのが得意だったり、やや羞恥心がなかったり、長く走れたり、自分の足で遠くに行きたがったり、知らない飲食店に入るのが好きだったり、木工が得意だったり、声がデカかったり、機械を触るのも得意。
    あるいは、駅近で庭のある家を借りていたり、実家が商店街に面していたり、滋賀に小屋を持っていたり。
    コミュニティイベントのシミュレーションが正確だったり、しかも新しいことをやりたがったり、初めての人とでもにこやかにコミュニケーションをとれたり。
    などなど、人より豊富なものは確かに持っているんだよなぁ。

    自分に足りないものを探して補おうとするよりも、人より豊富なものを把握して人に提供しようとする方がオープンでいいよなぁ。

    だが、自分に豊富なものはその価値を見落としがち。
    カタンというボードゲームがあって、5種類の資源を組み合わせて開発していくゲームなのだけど、自分には余るほどある資源が人には希少だったりして、それを交渉などして取引する際、手札はクローズで希少性が明らかじゃないところに、面白さと難しさがある。

    豊富だと思っていたけど市場価値がなくなることもあるし、最近はなんでも貨幣価値に変換されがちだし、豊富だと判断する力すらも奪われつつある。

    とりあえず、人を誘うことの得意さを発揮して、今日も2名をイベントに誘った。
    こういうのはだいたい感謝されることのほうが多い。
    豊かさを活かせているのでOK。

    とにかく、自分に足りないものを探すのを停止させよう。
    豊富さにフォーカスする。

    以上。

  • 人間の欲求の難しいところ

    人間の欲求の難しいところ

    毎日のようにブログを書いていてもなお、思考が整理されないという重篤な疾患を抱えている拙者であるので、本当に人生が生きづらいのだけれど、皆様はいかがでしょうか?

    生きづらいというのは、少し言い過ぎた。
    ふとしたタイミングで、なにが幸せなんだっけ? と疑問に思ってしまう。
    その結果、なにか自分に足りないものがあるのではないかと思いを馳せ、あれかなこれかなと考える。
    ダンスかな、執筆かな、交友かな、恋人かな、お金かな、自主企画かな、丁寧な生活かな、などなど迷走する。
    そもそも自分に足りないものを数えだすことは、不幸の沼地に足を突っ込んでいくようなものだ。

    かといって、自分は満たされている、感謝だ感謝だとセルフコントロールして生きていくのも、成長がなくなってしまいそうで好きじゃない。
    いつもチャレンジャーとしての自分を保っていたい。

    人間の欲求の難しいところは、満たされれば次の欲求が出てきてエンドレスなことと、欲求がすり替えられがちなこと。

    コロナ禍で人との交流が希少だったので、あらゆるコミュニティをありがたく思っていたけれど、飲み会が増えて希少性が落ちてきて取捨選択の必要が出てきたし、どうせならダンスをしたいという欲求がメキメキと増えてきている。

    ダンスをしたいという欲求を満たすなら1人で踊っておけば良いのだけれど、それじゃなくて、踊りながらも女性と目が合うあの感じを欲していて、それは性欲なのか、共感なのか、あるいは承認欲求なのか、すり替えられがちで分かりにくいけれど、とにかく踊る時のあの感じを味わいたい。

    この欲求を明確に捉えられたのならば、他のことでも代替可能だと思うのだが、ダンスって複合的なので、難しそうだな。
    音楽、運動、異性、自尊心、高揚感、浮遊感、共感など、色んなプラス要素がある。
    そろそろ、ペアダンスやフォークダンスを踊らしてはくれまいか。

    というわけで、思考が整理されていないのだが、、、
    とにかく踊りたい。
    あるいは踊った時に匹敵するような高揚感を味わう方法を探そう。
    というのが、今日の結論。

    以上。

  • シンプルさがなくなる時期だな

    シンプルさがなくなる時期だな

    春らしい気候だ。肌寒い朝や初夏のような昼や週末の雨。畑には雑草も虫も増えてきた。
    そして、Tシャツで電車に乗っても平気な気温になってきている。(ああこれは、走った後の話。)
    夕方、京都市内を北上し8km走って、鴨川を眺めながらビールを飲み、神宮丸太町から京阪で帰ってきたのだ。こういう走り方ができる季節になったことを嬉しく思う。
    こんな季節だからこそ、シンプルさがなくなっている。思考カオスな時期がやってきた。

    冬場は選択肢が少なくてシンプルだった。
    ランニングして、風呂入りながら小説を読んで、薪ストーブを焚きながら温かいお茶を飲んで、小説でも書こうか、という日々だった。早く春が来たらいいのになって思っていた。
    だが暖かくなると、飲み会は増えるし、盆踊り情報も入ってくるし、イベントも復活してきたし、畑仕事もできるし、バイクも苦痛じゃなくなるし、やれることが増えすぎてシンプルさに欠ける。
    かえって、何をするべきかに迷う。
    あいかわらず気が多い。

    人の誘いに乗っておけば良いか、と思いつつ、自主企画をやらなくてよいのか? と考える。
    過日、生演奏を聴いたのでダンス欲が高まっている。
    かといって、執筆をすべきじゃないのか、と思う。
    登山はどうか? トレランはどうか? それも頭をよぎる。
    ゆるふわスポーツ大会Ⅱは? GPS鬼ごっこは? これもある。
    カオスである。

    しかも夢を描く時間が足りない。人と接する機会が増え、楽しませてもらっているからだ。毎週何らかの集まりがあって、自動的に予定が埋まる。
    楽しいけれど、本来の役割を果たしているのだろうか?

    冬場に思い描いた春の楽しみは一通りやって満足してきた。
    草木が芽吹くように、あれもこれもとやりたいことが芽吹いてくる。
    だけど取捨選択する思考の時間が足りなくて、ただ戸惑うばかりだ。

    間引きをして、良い苗を育てねばならんのではないか?
    頭の中は雑草がボーボーの畑なのかもしれん。

    何をすべきか、ちゃんと考えよう。

    以上。

  • BIEDEの京都レセプションに山本英さんを聴きに行く

    BIEDEの京都レセプションに山本英さんを聴きに行く

    雨に煙る京都を傘もささず進む。四条烏丸から西へ。
    夕方の通行人たちは、今からご飯♪ というような気配を漂わせ、食事への期待に心と胃袋を踊らせているに違いない。
    拙者は足早に歩く。期待と不安の感情に追いつかれないように。
    期待はというと、1年以上ぶりに推しのフルーティスト山本英さんの音色が聴けること。
    不安はというと、その演奏はBIEDE(ビエダ)というブランドのレセプションパーティーで行われるということ。
    演奏会であればチケット代を支払い、客として振る舞えるのだが、招待もされていない、関係者に知り合いもいないパーティーにノコノコ出かけるのは恐怖であり、服装を選ぶ段階でも困惑し、スーツに袖を通した後もドギマギし、なんだか娘の晴れ舞台を観に行く父親のコスプレをしているみたいだなぁと鏡に映った自分を評価し、ずっと平均台の上に立っているような心地であった。グラグラする。
    こういう時に、人は早足になるのだ。

    2023年4月15日(土)18:00~、node hotelのロビーにて、BIEDEのバックの展示、写真家の作品の展示、歌代ニーナ氏によるパフォーミングファッションショーが実施され、プログラムの一部にフルーティスト山本英さんも出演された。

    このような会は拙者にとって別世界のものであり、実施概要を読む段階で壁を感じた。
    だが参加一択。なぜなら山本英さんの演奏を聴く機会が希少すぎるゆえだ。3年前からのファンなのだが、折しもコロナ禍で過去3回しか演奏会に行っていない。
    今回は京都でのご出演とのことで絶好の機会。

    京都は拙者のホームグラウンドであるので、多くの友人に英さんの音色を聴かせたいと思ったが、今回はブランドのレセプションなので、その空気に合いそうな友人数名だけに声をかけたところ、1人が二つ返事で参加を表明してくれた。
    会場に着いた段になり、客でもないし関係者でもない自分の存在はやはりグラグラであり、その友人がいてくれたことはとても心強く、感謝である。
    彼女には自分の弱みをみせても大丈夫だと経験できたことは、今回の収穫の1つになった。

    拙者はあらゆるファッションブランドを存じ上げないし、BIEDEも同じくであるが、どうやらバックをメインに製作されているようで、バックが床に直置きで展示されていた。
    そのバックたちは不思議な硬質感があって、石を削ったかのよう。友人は「ジェンダーレスがコンセプトなんじゃないの?」と言った。なるほど、バックは女性が持つものだと思っていたが、改めて見ると性別を問わないプロダクトなのだと思ったし、そういう時代なのだとも思った。
    というのは、家に帰ってからの感想であり、会場にいた時は常にドキドキしていたので、製品を評価する余裕などなかった。

    ドキドキする理由は主に3つあって、1つ目はすでに言及した通りで、自分の存在の不確定さである。
    2つ目は山本英さんの近さである。
    いつもはステージ上にいらっしゃるお方なのだが、今回はステージを設けられず、すぐそこに控え、すぐ眼の前でフルートを奏でられた。なんら紹介も挨拶もなく、興が乗ったから音を鳴らしちゃった、というように。
    薄暗い照明の館内、BARエリアはざわざわしていて、さぁ今から何かを始めます! と言うこともなく、突如として歩きながらフルートを奏でる。
    これができるのはすごい。演奏者の能力だけではなくて、半分はダンスであったし、舞台女優でもあって、演奏しながら遠くを見つめる瞳の清らかさや、何らかの哀しみに肩を落とす仕草、音色だけではなく動画や写真に映ることを前提としたポージング。総合芸術だった。
    英さんが自分の目前でパフォーマンスをされているのは貴重な機会で、拙者はすべてを味わおうとするのだが、視覚情報も聴覚情報も漏らさぬようにと脳が忙しいし、あまりに近すぎて、ドキドキする。
    ヒュっと短いフルートの音は投げキッスのようで、とろけそうになった。
    このように何が行われるか分からないのが3つ目のドキドキで、結果的には4ターンの演奏があったのだが、どんなタイミングで演奏が始まるのか? その演奏もどこにどう動くか? が分からず、幼き頃に知らない地下街に迷い込んだ時のような心地。
    これらのドキドキが複合的に重なって、よし告白するぞ、というデートの時のような胸の高鳴りを味わった。

    ざわざわしたBARエリアで突如として演奏して道を切り開くシーン、床にペタンと座るシーン、そして上記の投げキッス、これらが最高に昂ぶったので憶えておきたい。

    自分の心臓の音がうるさかったし、周りがざわざわしていたし、ホテルのロビーであるし、自分の心と英さんの音をダイレクトにつなげるには苦労したけれど、後半では永遠のような一瞬が訪れて、いつものゾーンに入れた。
    山本英さんの音色を聴くと、時間や空間が意識から消える時があって、それを演奏会のたびに味わわせてもらっておるので、拙者はファンなのである。
    最後の曲はサティのジュ・トゥ・ブーであったことくらいしか、音楽については分からぬレベルのファンではあるが、英さんの音色が多くの人を魅了し、「今日の演奏も良かったねー」と語り合える人が増えるようにと期待。

    山本英さんの演者としての仕事っぷり、BIEDEのコンセプト、企業と芸術家の関係、友人の心強さ、あの空間に自分を存在させるにはどうしたら良いのかという疑問、これらの刺激を受けてとても満足している。
    会場へは早足で向かったけれど、去る時は踊るような足取りだった。
    音色を胸に秘め、明日からも生きていく。

    以上。

  • レセプションパーティーにランニングウェアで行けたなら

    レセプションパーティーにランニングウェアで行けたなら

    あらゆる服がランニングウェアだったらいいのになぁ。
    要するに、冠婚葬祭も、同窓会的なパーティーも、仕事もデートもランニングウェアでOKにしていただきたい。
    というのも、4/15は推しのフルーティストが出演なさるレセプションパーティーなるものがあり、何を着て行ったら良いのか困惑しているのだ。

    拙者のような不躾な男はランニングウェアで厳かなパーティーに闖入することもできるが、敬愛してやまないフルート将軍の顔にドロを塗るわけにはいかぬ。TPOをわきまえて拝謁せねばならぬ。
    だが、今回のドレスコードが分からず、うぬぬと頭をひねる。

    まぁ、スーツで行くことに決めたけどね。それが一番安全だからな。
    周りがややカジュアルめでも「仕事だったんですよ」みたいな顔ができるから。
    ウエストが大丈夫かどうかが新たな心配のタネ。

    社会って複雑だよなぁ。
    行く場所によって服を変えねばならないなんて。
    社会ってどんどん複雑になるよなぁ。
    たとえば、昔の家電製品などは修理できるシンプルさだったのに、今のスマホなんて何がどうなって動いているのか全然わからん。
    カメラでQRコードを読み取れることは知っているけれど、その認識される仕組みなどは知らない。

    色々なことを分かるためにはめちゃめちゃ勉強しなければならない。
    勉強には時間が必要で、そのため多くの人が運動不足になる。そしてイライラしている人が増えるし、クヨクヨしている人も増える。
    そこで、ランニングウェアである。
    みんな、走れ!

    とまぁ、どんどん複雑さを増す社会を嘆いている。
    だが、縄文時代には縄文時代の、平安時代には平安時代の複雑さがあったのかもしれんよね。
    たとえば、縄文時代に死者を弔う時は、自分の顔を炭で真っ黒にしなければならない、というようなルールがあったのかもしれん。そして拙者のように、なんでそんなことせなあかんねん、と思ったご先祖様もいたことだろう。
    あるいは、平安時代などは階層化しており、呪いなどの概念もあり、かなり複雑だったに違いない。方違えとかせなあかんかったみたいやし。和歌を詠まなあかんかったし。

    あれこれ書いたが、ランニングウェアに統一されたらされたで、なんでランニングウェアじゃないとアカンねん、と文句を言うのが常である。

    社会よりも複雑なのは拙者の心だな。
    複雑怪奇な我が心をフルートの音色で忘我の境地に入らせていただこう。
    楽しみである。

    以上。

    今読んでいる本

    金閣寺 三島由紀夫

  • たまには自己批判をしたい

    たまには自己批判をしたい

    今日は自己批判をしようかな。
    他者を批判するのは簡単であるし、なぜだか批判する気持ちが湧いてしまう。
    たとえばTwitterで「自分は高額納税者なのにリスペクトされない日本の文化はおかしい」というような文章が流れてきて、何だこれは? と拙者は思ったわけで、色々な論点で議論ができそうだが、その議論の結果で誰かが幸せになれることもなさそうなので、無視することにした。
    「リスペクトされるべきは高額納税者なのか?」という批判的疑問が湧くけれど、その矛先を自分に向けようと思う。

    拙者は隙だらけなので、批判すべき点は多すぎて、しかし最近では負け組独身中年男性として社会の最底辺に存在しているので、誰も批判などしてくれない。向けられるのは同情、あるいは哀れみ。
    あんまりいい気になることもないし、そもそもいい気になれるような栄光を手にしていないし、あいつの鼻をへし折ってやろうという気にもさせぬようだ。
    そして同じく自分が自分に向ける同情心があるので、自己批判もいつの間にか柔らかくなっている。
    ほれほれ、上記の通り負け犬のポジションを取ろうとする。

    さて、自己批判とは何を槍玉に挙げれば良いのだろうか。
    思考なのか、行動なのか、習慣なのか、言動なのか、さてはて。
    たとえば思考だとしたら…?
    うう、頭痛がしてきた。
    そもそも拙者には体系化された思考など存在しなかった。

    それこそ、20代前半の頃などは良い人生を夢に描き、正しい生き方などをそこそこ考えたはずだけれど、あれはどこへいったのか?
    数々の挫折によって霧散してしまったのかもしれない。

    たとえば、人間も動物であるし子孫を遺すことが大事、と考えていた。子を産み育てるのが人間としてやるべきことだと。
    だけど今は、それに向かない人も一定数いるよね、という考え方。

    たとえば、お金を貯めて資産形成をするのが賢い生き方だと思っていたけれど、今では経験に変えといた方がいいこともあるという考え方。

    どんな思考が良いかって、正解は無くて、むしろ瞬発力が必要な時が多くて、チャンスはだいたい1度きりしかやってこないので、その時に全力で掴みに行けるかが大事だったりする。
    その時に動けるかどうか。
    また今度でいっか、と思った今度は永遠にやってこない。

    瞬発力を可能にするのは、経験か脳内シミュレーションで、そのためには日頃から動いておくことと、未来を描いておくことが大事。

    というわけで、結論としては自己批判など必要ないってこと。
    そんな思考の暇があるなら、未来を描いておこう。

    だが敢えて、未来を描くより今を大切にしたほうがいいんじゃないか?
    と、批判する。

    うるせえばーか、俺は未来志向なんだよ。
    と、やや喧嘩腰に言い返し、今日の自己批判を終了とす。

    以上。

    今読んでいる本

    金閣寺 三島由紀夫