今日は自己批判をしようかな。
他者を批判するのは簡単であるし、なぜだか批判する気持ちが湧いてしまう。
たとえばTwitterで「自分は高額納税者なのにリスペクトされない日本の文化はおかしい」というような文章が流れてきて、何だこれは? と拙者は思ったわけで、色々な論点で議論ができそうだが、その議論の結果で誰かが幸せになれることもなさそうなので、無視することにした。
「リスペクトされるべきは高額納税者なのか?」という批判的疑問が湧くけれど、その矛先を自分に向けようと思う。

拙者は隙だらけなので、批判すべき点は多すぎて、しかし最近では負け組独身中年男性として社会の最底辺に存在しているので、誰も批判などしてくれない。向けられるのは同情、あるいは哀れみ。
あんまりいい気になることもないし、そもそもいい気になれるような栄光を手にしていないし、あいつの鼻をへし折ってやろうという気にもさせぬようだ。
そして同じく自分が自分に向ける同情心があるので、自己批判もいつの間にか柔らかくなっている。
ほれほれ、上記の通り負け犬のポジションを取ろうとする。

さて、自己批判とは何を槍玉に挙げれば良いのだろうか。
思考なのか、行動なのか、習慣なのか、言動なのか、さてはて。
たとえば思考だとしたら…?
うう、頭痛がしてきた。
そもそも拙者には体系化された思考など存在しなかった。

それこそ、20代前半の頃などは良い人生を夢に描き、正しい生き方などをそこそこ考えたはずだけれど、あれはどこへいったのか?
数々の挫折によって霧散してしまったのかもしれない。

たとえば、人間も動物であるし子孫を遺すことが大事、と考えていた。子を産み育てるのが人間としてやるべきことだと。
だけど今は、それに向かない人も一定数いるよね、という考え方。

たとえば、お金を貯めて資産形成をするのが賢い生き方だと思っていたけれど、今では経験に変えといた方がいいこともあるという考え方。

どんな思考が良いかって、正解は無くて、むしろ瞬発力が必要な時が多くて、チャンスはだいたい1度きりしかやってこないので、その時に全力で掴みに行けるかが大事だったりする。
その時に動けるかどうか。
また今度でいっか、と思った今度は永遠にやってこない。

瞬発力を可能にするのは、経験か脳内シミュレーションで、そのためには日頃から動いておくことと、未来を描いておくことが大事。

というわけで、結論としては自己批判など必要ないってこと。
そんな思考の暇があるなら、未来を描いておこう。

だが敢えて、未来を描くより今を大切にしたほうがいいんじゃないか?
と、批判する。

うるせえばーか、俺は未来志向なんだよ。
と、やや喧嘩腰に言い返し、今日の自己批判を終了とす。

以上。

今読んでいる本

金閣寺 三島由紀夫

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投稿者: 石黒わらじろう

京都の古い民家で暮らしている。 趣味はランニングとブログと盆踊りを含むフォークダンス。 別名義で書いた小説は映画の原作として採用された。 自分で建てた小屋にて暮らしていたことがある強靭な狂人。 地球にも自分にも健康な生活がしたい。

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