投稿者: 石黒わらじろう

  • 食あたりの体当たり文章

    食あたりの体当たり文章

    豊かさを、
    こぼれ落ちるほどの豊かさを得ようとしているのだが、食あたりになってしまった。
    流石にこんな日は、何が悪かったんだろうか、あれかなこれかな、揚げ物ばかりを食いすぎたかな、と反省しており、豊かな想像力は阻まれている。

    4ヶ月ぶりくらいにプールに行った。この間、皮膚の調子が悪かったり、足の傷があったりで休んでいた。筋力は低下したので遅くはなったが、基礎体力はあるので存分に泳げた。
    泳ぐとヘトヘトになって、お腹がペコペコになって、その勢いで食べてしまって、お腹の調子が悪くなる。
    プールで体も冷えるんだろうな。
    水泳後の食事は、次回から気をつける。

    もともと胃腸が弱いのに、周りに食べ物が豊富にあってそのギャップに苦しんでいる。食物資源を活かしきれず、もどかしい。
    胃腸を強くする方法があるなら教えて欲しい。
    たまに強力わかもとを摂取している。

    体が丈夫じゃないと、それだけで心配事が1つ増えてしまい、豊かさから遠ざかってしまう。
    腹痛を抱えたままでは、笑ってなどいられないし、眉根が寄り、文章も堅くなる。
    花粉症もあるしなぁ、鼻水ダラダラ出るしなぁ。
    胃腸が強けりゃなぁ。
    皮膚が強けりゃなぁ。
    こうして足りないものに思いを馳せて、心が貧しくなるのである。

    まずはこぼれ落ちるほどの豊かさを持ってから、何かを表現すべきだと思う。
    弱気な表現は哀れみしか生まれない。
    注目を浴びたいがための表現は、足元を見られてしまうというか、貧しさが露呈して、感動が生まれない。
    表現ってのは、こっちの世界においでよ、ってそういうもので、その世界が貧しかったら、即、行きたくねーよ、という回答。

    後半にくるにつれ、メモみたいになっていく拙者の貧しき文章。
    だってさ、胃腸が弱いからさぁ。

    カモミールティー飲んで、明日には復活したい。

    以上。

  • ただゴキゲンに生きる

    ただゴキゲンに生きる

    よくもまぁ毎日毎日、誰の役にも立たない無駄な文章が書けるもんだ。
    というのが、このブログを自分で読む感想。
    最近では、情報価値をのっけてなるものか、とさえ思っている。

    情報価値がないのにも関わらず読みに来てくれた人と間接的な時間のやり取りをすれば良くって、最新ニュースを知りたいとか、もっと頭が良くなりたいとか、仕事に役立てたいなどと思う人は、ワラクリなどに来るべきではない。
    貴重な時間を無駄にしなさんな。

    昔は拙者も世の中の役に立てたらいいなぁと思っていたし、アクセス数が上がればいいなぁと思っていたし、注目を集める記事はどんなだろうかと考えていたこともあった。
    しかし、花開かずに今に至る。青いまま枯れていく。

    今やブログは、時間つぶし、というと悪く言い過ぎで、文章を書くというリラックスタイム。
    縁側でお茶をすするように、ブログを書いている。
    お茶をすすっていると、「今朝は冷えましたね」などと読者がやってくる。
    「そうでしたね、布団から出るのが億劫でしたよ」と答えつつ、拙者は今日の出来事を振り返るのである。
    プールに行けなかったな、母が全力で掃除をしていたな、カツカレーを食べたな、お店に知り合いがいたな、大きな荷物を背負った学生たちが多かったな、酢豚の味がパシッと決まらなかったな、白木蓮が満開だったな、などなど14時間くらい起きてるとそこそこ記憶が残っていて、寝る前に振り返っておくとスッキリ眠れて良いのである。
    皆も、動画見たり、ゲームしたり、酒のんだりするのをいったんやめて、少し一日を振り返ったほうが良いよ。

    ああ、しもた、役に立とうとしてしまった。
    アドバイスしてしもた、ダメだダメだ。

    役に立たずに生きるぞ。
    目指すところとしては、ただ毎日ゴキゲンに生きて、そのゴキゲンさによってなくてはならない存在になりたいなぁ。

    今の社会は知識や才能を磨いて、それを証明して、周りに認めてもらわにゃならぬ。
    そこには競争があり、批判合戦があり、マウンティングがあり、セルフブランディングがあり、アテンション・エコノミーがあり、破壊的パフォーマンスがあり、炎上がある。
    もう、わしゃ、疲れたわい。

    有能さを捨てて、ゴキゲンに生きようぜ。
    わざわざ怒りを感じる情報を集めず、芸術活動・創作活動をする人たちから魂のパワーをもらって、ニコニコ生きる。
    誰かを馬鹿にしたくなった時は、心が貧しくなっている症状だから、心を回復させよう。
    とにかく心を豊かにしとこう。

    人から馬鹿にされたらいいんだ。
    馬鹿にされたくないと思っていて馬鹿にされたら、くそう! となるけど、
    どうぞ、馬鹿にしてもいいよー、と思っていて馬鹿にされたら、それ狙い通り、となる。
    気持ち良い。

    心が豊かになるように、花の名前を少しでも覚えよう。

    これはなんだろう?
    椿の仲間かな?

    以上。

  • なぜ確定申告に恐怖心を抱かねばならぬのか?

    なぜ確定申告に恐怖心を抱かねばならぬのか?

    確定申告終わりました。
    休日を潰して入力作業をし、税務署は近いので本日の朝イチを狙って提出しに行った。
    ほとんど待ち時間なく無事ゴール。
    職員さんが「お疲れ様でした」と言う。
    朝イチでその言葉を聞いた。
    お祓いしてもらった気分。
    青空がやっと青く見えた。

    確定申告って呪いなんだろうなぁ。

    拙者は水道料金をギリギリまで滞納してしまうけれど、確定申告だけは毎年期限内にゴールしている。
    何らかの恐怖心があるんですよ。
    税務署と言う響きが怖い。
    濁音から始まるものはだいたい怖い。
    ガイコツ、ギロチン、グリズリー、ゲゲゲの鬼太郎、ゴキブリ。
    惨殺、自殺、ズタズタ、税務署、ゾンビ。
    あー怖い。
    水道局なんて全然怖くない。
    でも、上下水道局になると、ちょっと怖くなる。
    まぁ、とにかく、税務署の確定申告は多くの人にとって怖いのだ。

    くーる、きっとくるー、
    とばかりに、2月の中旬から、3月15日の提出期限が迫ってくる。
    この間のストレスはいかばかり。
    ずっと、肩に重荷を背負った気分。
    あー、あれをやらなきゃ、あれをやらなきゃって思いつつ、だらだらしてしまい、だいたい3月7日から作業を開始するのである。
    呪いの1ヶ月間を過ごすのである。

    お寺でも神社でも祓ってもらえなくて、税務署でやっと祓ってもらえるのだ。いや、結果によっては税を払わねばならない。

    数字が苦手な人、書類の管理が苦手な人、仕訳の意味が分からない人など色々いて、拙者も苦手というか、なんでこんなことせなあかんねん、と思って、あーくそ生産性ないなぁ、厭だ厭だと処理している。

    さらに政府はインボイスなどと言い出して、てめえらザルみたいに税金を垂れ流しやがって! 庶民に細かい事させてんな! 商取引にややこしいものを介入さすな! 織田信長の楽市楽座を見習え! と怒り心頭で、でも何らかの判断と対応が必要で、困惑。

    だけれど今日、怒りと困惑と整理と入力の日々が終わった。
    呪いが解けた。
    わーいと羽を広げている。

    確定申告の内容を見てみると、低収入が明らかになり、社会の最底辺に存在することを再認識させられるのだが、
    いいんだ、いいんだ、駆け出しの小説家なので貧しくて当然だ。豊かな小説家なんてニセモンだ。貧しくて、貧しくて、だからこそ空想の世界を愉しむのが本物だ。グスン。
    こんな風に自分を慰め、上昇志向のないままで生きて行くのだ。

    とにかく、水道料金払わなきゃな。

    以上。

    今読んでいる本

    秘密の花園

  • 宝探し、それはミモザ。

    宝探し、それはミモザ。

    現代は何かを見つけ出すのが簡単になってしまって、宝探しのような幸福を失ってしまった。
    ネットで検索すれば売ってるものはだいたい買えてしまう。
    拙者の青年時代はそんなに便利じゃなくて、あっちへ行ったりこっちへ行ったり。ビデオもCDもレンタルしていた時代だった。欲しい物がレンタル中だったりした。
    手間はかかったけれど、手に入れる喜びはそっちのほうが大きかった気がする。
    こういった宝探しがなくなって、今ではお金払って謎解きゲームをやったり、課金してゲームのガチャを引いたり、アプリ上のレアキャラを探す。
    そういう社会。

    みんな求めてるんだなぁ、宝探しを。

    3月になると、Twitterのタイムラインに黄色い花が現れる。
    それはミモザ
    拙者の観測範囲では女性はミモザが大好きみたい。
    拙者はミモザが好きな女性が大好きなので、自然とミモザに興味が湧くのである。
    しかし拙者は知らない。ミモザがどこに咲いているのか。

    梅や桜がどこで咲いているかは把握しているが、ミモザは分からない。
    たぶん植物園とかには咲いているだろうけど、もっと近所にあっても良さそうだし、拙者はランニングを嗜んでいるので、近所の風景には詳しいはず。
    ミモザ~、ミモザ~、僕のミモザ~、と恋人を探すように、花を探していた、わけではないけれど、ここんとこ気にしていた。
    ネットで検索したりもした。

    すると今日、自転車で坂道を気持ちよく下っていると、路地の奥にふわふわの黄色い花が満開になっていた。
    見つけた! と思った。
    わざわざ坂を引き返す。

    近づいて見てみると、思っていたよりふわふわだった。
    気持ちよさそう。ふわふわ~。

    ギンヨウアカシアかな?

    これは近所にミモザを見つけた、という単純な話だ。
    だけれども、心がじんわり温かく、こんなことだけで充実した一日になったのである。

    これは要するに、前述した宝探しに成功したということだ。
    あの時、黄色いふわふわの花と青空を見上げ、ファンファーレが鳴り響いた。

    ミモザの発見で幸福を得られるわけだから、もっとこういう宝探しをすべきなんだろうなぁと思った。
    先日一緒にトレッキングした先生は比良山の隠された道を探しておられるし、心地よいCafeを探している人もいるし、酒場巡りも楽しいし、旨い酒、良い陶器などなど探す人がいる。
    拙者も面白みのあるランニングコースをいつも探している。
    まだ知らぬ盆踊り会を探している。
    酒飲んで踊り明かすくらいにめっちゃ楽しいことも探している。

    みんなが欲しがるものじゃなくていい。見つけたからといってスゴイと言われなくてもいい。
    自分にとって発見したいもの。それが宝なのである。

    みんながいいと言うものはもちろんいいんだけど、確固たる自分の価値基準があるのもいいよ。

    探そう、宝。
    じわじわ見つけよう。

    以上。

  • 飛脚棒で走ってみると分かること

    飛脚棒で走ってみると分かること

    飛脚は棒の先に手紙を挟んだり箱を付けたりして走ったらしい。
    実際に見たことはない。
    それはたぶん江戸時代の話で、今とは走り方も違ったのではないかと言われている。

    令和時代に生きる拙者はというと、飛脚では稼げないので、ランニングは趣味であり、ただ走るだけではなく、走った後のビールや銭湯、トレラン、旅ランなども好んでいる。
    ランニングは簡単なスポーツだ。家を出て、適当に走って、家に戻れば良い。
    だが、銭湯をゴール地点にするには少し計画性が必要だ。
    よくあるパターンは銭湯まで行き、荷物を置かせてもらって、数キロ走り、銭湯に戻る。A to A のパターン。
    しかし、A to B をやる人もいて、そういう人はトレランリュックに着替えを詰めて走るらしい。

    拙者は思う。トレランリュックを買うべきかなぁ。しかし背中が蒸れるのは嫌いなんだよな。できればリュックを逆にして胸側に抱える方が好き。うーむ、トレランリュック、いらんなぁ。
    そういえば飛脚って、リュックを背負わないよな!

    というわけで、飛脚棒に銭湯セットを釣って走ったらどうなるのか? やってみた。

    ちなみにWebの記事では飛脚棒を使ってみる記事はそこそこある。
    しかし、記事のための企画って感じで、本気度が足りない。こっちは実用性を求めているんだ。
    トレランリュックを超えれるか否か、それが知りたい。

    花粉が飛びまくっている春の土曜日。梅は散りはじめ、サンシュユが咲いたり、木瓜の花が目立つようになってきた。
    だいたい決まったいつものコースを走る。違うのは竹の棒にトートバックを付けて担ぐこと。

    竹は20年は経ったような品だが、取り付ける部分は近代的にカラビナとトートバックにした。

    飛脚棒を持って道を歩くなんて、周りの人が誰もやってないから、ちょっと恥ずかしい。
    だが、白日の下に持ち出してみると気づいたことがある。

    杖に擬態できる

    飛脚棒は肩に担ぐから飛脚棒なのであって、地面につけると杖だった。
    杖を持っているのは変じゃない。険しい山に向かう人か、ノルディックウォーキングみたいになるので大丈夫。

    杖状態で近くに駅まで行ってみて、いよいよ担いでみる。

    選択肢が多い

    飛脚棒を肩に担ぐだけだが、選択肢が多い。
    右肩か左肩か。どの程度荷物を遠くにするか。手で持つ位置はどこにするか。持つ角度はどうするか。
    どのポイントが楽なのか、安定するのか分からなかった。

    そして車とすれ違う時にも効果を発揮する。

    強くなる

    どうも人間の心理は長い棒を持つと強くなるようで、いつもなら車とすれ違う時は逃げるように遠ざかるのだが、棒を持っていると戦うすべがあるような気になった。強い!
    また、存在感もアップして、車が気をつけてくれそう。

    むしろ、棒を持って走ることに子供の頃から憧れていたような気になった。
    ドラゴンボールとかでね。

    しかし、人目にさらされているのである。

    人の視線はちょっと気になる

    まぁ、普通に生きている人は、飛脚棒を担いだ人とすれ違わないので、視線がむくよね。ちょっと無視できない存在になる。
    たぶん多くの人に見られる。
    その分、頑張って走り去る。

    走っていると徐々にしんどくなってくる。

    姿勢が良くなるかな?

    これは検証できていないが、肩で棒を支えるので姿勢が良くなるはず。
    だとは思うのだが、変な姿勢になる可能性もある。片側に力が入ったりするから。
    ちょっと分からん。
    とにかく途中から、姿勢をキープするのがしんどくなる。
    棒を持ってる手がだるくなってきたりもするので、左右を変えたりする。

    そうすればいつものように走れるかと思うが、そうではない。

    速くはない

    今日の調子なら、1kmあたり5分台で走れたはずである。
    しかし結果は6:21だった。やや遅いペース。
    また、上半身を動かさないようにしようとするあまり、走りがぎこちなくなって疲れる。
    この点、トレランリュックの方が速いんじゃないかと思う。

    あと、心理にも少し影響がある。

    地位が下がった気持ちになる

    これは不思議な心境だが、棒を担ぐというのは、やはり原始的であり野蛮な印象。
    また、振り売りの印象もなぜか持っており、駆け出しの下っ端感が出てしまう。
    自分の中の歪な価値観を発見した。

    というわけで、ぜんぜん使い物にならないわけではないし、そこそこ走れる。
    今回は練習なのでA to A だったのだが、目的地を変えて本番をやってみるべきだ。
    どうしてもリュックの背中の蒸れを許容できないからなぁ。飛脚棒でなんとかなるなら、ちょっとだけ嬉しい。
    あと、山でクマに遭遇したとき、トレランリュックでは牽制できないけど、飛脚棒なら……。
    いや逃げろ。

    夏場になったら進化して、ふんどしで走ってみるかもー。

    以上。

  • 春からの幸せを描く

    春からの幸せを描く

    早く春が来ればいいのに、って思っていたらもう春で、鼻水があふれてくる。
    季節が変われば生活スタイルも変えねばならない。
    冬場はお布団の中で空想したり、湯船に浸かりながら1時間以上本を読んでいたりした。
    だから冬場の幸せをまとめておき、春からの幸せを描いてみる。

    2023年に入ってからの2ヶ月と10日は、体調が回復してきたこともあり上り調子である。
    ・自宅での独り酒を禁止し、調子が良い。
    ・毎日くらいブログを書いて、自分の思考が整理できているとともに、行動圧力がかかってオープンさが増している。
    ・体を動かすコミュニティに顔を出して楽しい。ハッシュ、ランニングクラブ、主催したゆるふわスポーツ大会とトレッキングバーベキュー会。
    ・空想が捗っている。

    できなかったことは、マラソン大会への出場と銭湯へ行くことかな。いずれも足の不調で控えた。

    とにかく、一緒に遊んでくれる人がいてありがたい。
    金も地位もないけれど、とにかくいい人でいようという決意。マウンティング欲求とか捨て去って謙虚でいたい。
    もっと楽しさを運んでもらおう。

    春からのことを考える。これは盆踊りシーズンに入るまでの4・5・6月のこと。
    花が咲き、新緑が芽生え、雨が降る。
    最もアウトドアで遊べる季節がやってくる。
    さりとて、4月は花粉も寒暖の差も激しく体調を壊しやすいし、5月は5月病になるし、6月は梅雨だ。
    無理は禁物。

    ・まず畑を愉しむ。土とともに生きてみる。
    ・毎週末、体を動かせるコミュニティへの参加を理想としてみる。
    ・鶏の孵化に再チャレンジしたいけど、卵って売ってるのかな?
    ・盆踊りシーズンに向けた準備もしたいし、新しい盆踊りの振り付けをやりたい。そういえば江州音頭を唄うのはどうなった?
    ・誰かにバーベキューをやってもらう。拙者は準備に関与しないやつ。

    よし、春からの幸せはこれでいこう。
    巻き込まれることもあるし、巻き込むこともあるだろう。
    よろしくお願いします。

    以上。

    今読んでいる本

    秘密の花園

  • 春の文章

    春の文章

    春のようにだらけた文章を書こう。
    冬場は寒くて首から肩にかけて常に力が入っていた。
    春はゆるゆるでいこう、ほにゃほにゃでいこう、ふわふわとしよう。

    春は良い。スーパーでも道でも赤ちゃん連れのお母さんが目につく。
    赤ちゃん可愛い。クマの着ぐるみみたいなベビー服を着せられていた。目線だけをふらりふらりと動かしていた。
    幸あれ。

    春は良い。ランチでカレーを食べたら汗が吹き出てきた。だらだらした。ナンのおかわりもした。
    腹パンパン。

    春は良い。昨秋に撒いた小松菜の根を残して刈り取っていたところ、いまだに健在で、いわゆる薹(とう)が立ってきた。
    苦くなって食べれないのだろうけど、生命力を感じている。

    春は……、しかし、良いことばかりでもない。
    確定申告はだらだらとして進まないし、書きつつある小説は面白いのか分からなくなってきた上に山場まで持っていけるか心配だし、調理の仕事は評価基準が曖昧で努力のしどころがぼやけている。
    あと1つでも不安が増えたらもうダメだ。
    そ、そういえば、頸椎がキシキシ音を出すんだった。
    不安だ、もうダメだ。

    でもまぁ、ブログを書いている時間だけは、だらけておこう。
    無駄なものを生み出して、効率も有効性も考えずに時間を過ごそう。
    絶対に誰の役にも立たないことを書こう。
    情報価値ゼロ。
    誰も勇気づけず、何ら参考にならない文章。
    あくびみたいな表現。

    ふわぁ~、眠い。
    春だね。

    以上。