投稿者: 石黒わらじろう

  • 高島おどりを称賛せざる負えない

    高島おどりを称賛せざる負えない

    ああ踊りたい。
    野外で踊りたい。
    コロナのせいで2年ほど盆踊りが壊滅しておった。これでは心の平静が保てぬ。「花に水、人に愛、狂人には盆踊り」などと言う名言は拙者の心にしか存在せぬが、クスリを求めるかのごとく盆踊り情報を血眼になって探しております。
    すると「高島おどり」なるものの存在を知る。
    滋賀県は江州音頭が盛んだが、その文化圏ではない独自の盆踊りが高島市にはあるらしい。
    「これは面白い!」と、思いつつ、ちょっと遠いなぁと、思いつつ、夜の9時に終わってシャワーも浴びれずどうしたらええねん、と思いつつ、当日まで行こうか行くまいか悩んだ。
    だってさぁ、待ってる人がいない場所に単身乗り込むのはまぁまぁしんどいからなぁ。

    そんな風に、しゃあねぇなぁ、とバイクを1時間半ほど飛ばしたのですが、踊ってみるとめっちゃ楽しくて称賛せざる負えない。

    拙者について

    高島おどりが楽しかったので称賛したいのですが、どういう目線、どいういう立場で評するのかを定義しておかなければならぬ。
    拙者は石黒わらじろうでござる。
    盆踊り歴はさほど長くない、5年目だったかな。フォークダンス出身で、サルサの経験もあります。
    京都の盆踊りを転戦して、それらの良い点・イマイチな点など、当ブログに書き殴った結果、嫌われてもいるし好かれてもいる。
    そこまで盆踊りマニアではなく、近場で楽しみたいタイプですが、大阪・奈良・郡上には遠征しました。
    「正しさより楽しさ」「祈りと求愛」を踊りのモットーとしています。

    2021年秋のサイレント盆踊り、平安神宮前

    位置づけ的には、インターネットを駆使できる最初の盆踊り世代、かなと思いますので、高島おどりはココが凄いぜって書き綴りたい。

    江頭先生キャラ立ちすぎ

    まず、高島おどりは踊り方動画をYouTubeにリリースされているのですが、その踊りの先生が江頭先生
    どういう踊りかと拝見したところ、江頭先生のプロモーションビデオみたいな出来でビックリしました。ロケ地にもこだわりがあってめちゃめちゃ頑張ってる。
    あんまり長く見過ぎると江頭先生を好きになってしまう危険性があったので、だいたい途中で切りましたけど、それでもインパクトを残すには十分で、「あの先生に会えるのかな?」と思いながら、自宅を出発することになりました。

    現地においても、江頭先生が中心になって踊りのレクチャーが行われ、とても分かりやすかったのです。全然覚えれなかったのですけど。

    とにかく、数ある盆踊り会でここまでのインパクトを残す人は数えるほどしかいないので、高島おどりには江頭先生が存在することの凄さと安心感は際立っております。

    7種類のトラディッショナルな踊り

    踊りを覚えられなかった、と書きましたが、7種類もあったからなのです。どれも手を抜けるようなものはなくて、頭がプスプスなりました。
    盆踊りらしい伝統的な動きで、郡上おどりや松ケ崎のさし踊りっぽい動きで、好きだった。
    覚えられなくても楽しかったのに、ちゃんと覚えられていたらもっと楽しいはずだ。
    7種類もあれば飽きない。すごくいい。

    これは、高島市の各地で踊られてたものを15年ほど前に集めて実施したそうです。
    各地の踊り会が途絶えつつあったんですって。
    と、揃いの浴衣を着たおばちゃんに聞きました。
    ちなみに今津の藤原さんがそういうムーブをしたそうで、高島おどりの英傑が存在するわけです。かっこいい!

    生音頭

    地域の方々による生音頭なのです。三味線、太鼓、音頭、合いの手、ライブでした。
    センターの将棋の駒みたいな踊り櫓もカッコよかった。
    2種類ほどは音源でしたけど、各地に生音頭グループが残ってたり、新たに立ち上げたりしたそうです。
    すごい。物語がある。歴史がある。素敵だ。
    ぽっと出の盆踊り会には真似のできない価値だ。

    駅近・屋根付き

    拙者はバイクで行きましたが、会場はJR湖西線近江今津駅すぐの商店街で行われました。
    京都から片道1200円ほど、1時間ちょいで行ける。
    アクセスいい!
    しかも屋根付きで天気の心配をしなくていい!

    トイレの場所がよくわからなかったのと、何度か蚊に刺されたけど、それは各自が対処すべきなのでしょう。

    各種SNSも全力

    YouTubeが丁寧だとは書きましたが、他にもFacebook、Twitter、Instagram、LINE公式などでも情報発信されているようです。
    担当の人、すげぇなと感服いたします。

    イラストが特上

    高島おどりの公式イラストがあるのですが、これは比類のないほど盆踊りらしいイラストで特上レベル。
    楽しげやし、筆使いも踊ってるし、このグッツは欲しくなる。
    Tシャツと手ぬぐいを買いました。

    声かけていただきました

    拙者は単身乗り込んで孤独に踊っておったのですが、コアラモードみたいな女子大生と「楽しいですねー♪」などとお喋りしたり、終わった後には地元関係者の女性に声かけてもらったり、ウェルカム感あってありがてえなぁと喜びました。
    最後の最後は人とのふれあいですからね、こういうのが大事です。

    (ちなみにコアラモードというのはミュージシャンで、いつもオーバーオールを着てる。)

    夢のある盆踊り会

    こんなにも良いポイントがある盆踊り会ですが、盆踊り統合から10回目ということで、伝統はあるのにまだ若いんですよね。
    その点で、もっと多くの人が集まるんじゃなかろうかとか、ちゃんと踊りを覚えたら踊りの主軸の一人として活躍できそうだとか、夢が膨らむ。

    来年はちゃんと踊りを覚えて乗り込んで、もっと調子に乗ろうと思う次第です。江頭先生に劣らぬキャラ立ち具合を見せてやるぞー。

    2日連続になったり、徹夜踊りになったり、もっと発展したらいいなー、ワクワク♪

    狂人からは異常です以上です。

  • 修行僧こそ幸せ

    修行僧こそ幸せ

    未だ、何が幸せか? どう生きるべきか? よく分からない。
    分かっていることもあるし、それを説得力を持って語ることもできる。
    たとえば、幸せなんて自分の意志ひとつだよ、とか。
    幸せは外部から与えてもらうものではなく、自分にしか与えられない、とか。
    「君を幸せにするよ」なんて言葉は全部嘘っぱちだ、とか。

    しかしまぁ、こういうことを語ったところで、あるいは聞いたところで、「まぁ、そやろね」くらいの感情しか起きない訳です。

    仮に、私が成功者と呼ばれる人で、幸せそうに振る舞っていて、「〇〇すれば幸せになれる」と語ると、誰かが「ふむふむ」と言うかもしれんけど、そこにはやはり嘘がある。

    価値観が振り子のように揺れ動く。
    喉が乾いたら何よりも水が欲しいけど、それが満たされたらそれ以上の水はいらない。
    孤独の中にあれば、誰でもいいから人と喋りたいと思うかもしれんけど、いざ喋ってみると誰でもいいというわけじゃないと気づく。

    と、こんな風に、未だ分からぬ。

    ただ、今日の私は、いや、今の私は、修行僧みたいに生きるのがむしろ幸せなんじゃなかろうか、と思っている。
    もしかすると、理想の姿はそっちなのかもしれん。
    ミニマリストに通じるところがある。
    まず、豪華な食べ物とか欲してないし、酒のんでウェイウェイするのはサルっぽいと思うようになったし、外部の刺激によって感情を揺さぶられるのが虚しいというか、ありがちというか、バランスをとるのが難しい。

    ちょっと、インターネットにつなぐだけで、ガシガシ欲望を揺さぶられる。それってやっぱりしんどいんじゃないか? 頭がクール時は「そんなものいらねぇ」と思えるかもしれんが、ぼぅとしてる時は「それがあったら幸せかもしれん」と、心に支配が及んでしまう。

    先週なんかは、毎日5000円くらいの買い物を積み重ねたんですけど、いざ商品が手に入ってしまうと、あのキラメキは幻想だったことに気づく。

    自分で自分を支配している感覚が大事なんじゃないか。

    ここ半年くらい、足首の靭帯が切れていたせいで長距離の歩行ができなかったのですが、ようやくリハビリ期に移ってきた。
    昨日は散歩をしたのです。地味に1人で。
    木々の緑とか、そのゆらめきとか、吹き抜ける風とかを感じようと思って。そして実際に感じて、「やっぱり、こっちのほうが必要だな」と実感したところです。

    ふとスマホを手にすると、今ここにはない何かに感心を奪われすぎる。
    これじゃあ、幸せにはなれんな。

    ・自分を支配している感覚
    ・自分に合った生活で自分らしく生きること

    まずはこれを大切にしようと思っております。

    この文中にオチはないのですが、
    「結局、自堕落な生活しとるんかーい!」
    という実生活が、オチ。

  • 【Neo風物詩】大文字サイレント盆おどり(2022.08.16)

    【Neo風物詩】大文字サイレント盆おどり(2022.08.16)

    今年もやります、送り火の日のサイレント盆踊り!
    2021年にあらゆる盆踊りがコロナで壊滅する中、京都のお精霊さんを慰めるために、4人の凡人があの場所に集結し、踊ったのです。
    夢の中にいるような、物語の中にいるような、そんな記憶がある。

    去年は初回ゆえ実験的に行いましたが、今年は末永く残る京都Neo風物詩とすべく、踊り狂いますのでどうぞよろしくお願いします。

    実施日:2022年8月16日(火)
    実施場所:出町デルタ
    時間:19:00~20:00
    お布施:500円くらい

    持ち物:汗かいたときの着替え、有線イヤホン

    踊りに参加する方は、事前に連絡してもらうと色々とフォローができます。(メール
    初心者でも大丈夫。見学OKです。

    踊り曲目:江州音頭、河内音頭(手踊り、マメカチ)、炭坑節、郡上おどり(春駒、かわさき)、ドンパン節、ダンシング・ヒーロー(予定)

    踊りに参加すると異世界トリップしますので、万人にはオススメしません。輪の内と外では世界が違うのです。

    京都の歴史に自分を刻む覚悟で、踊りを先鋭化させていきます。
    今年のテーマは破壊的パフォーマンス。
    無理に人を集めなくても、人は後からついてくる。

    【同日開催】大文字を映した酒を呑む会

    踊り終わった後に、ちょうど大文字の点火が始まります。

    京都の言い伝えで、送り火を酒の入った杯に映し、それを呑むと無病息災だそうです。
    本当に映るのか、どうすれば映るのか、街灯が邪魔になったりせぬのか、色々と分かりませんが、とにかくやってみます。

    あなたが今まで味わったことのない面白さがここにある。

  • せめて師匠と呼ばれたい

    せめて師匠と呼ばれたい

    生きるのがたいへん難しい社会になってまいりました。
    結婚はできない、自分に合ったコミュニティは作れない、ネット上で注目は浴びれない、仕事はやたら疲れる。
    もう生き地獄でございます。
    いや、それは言い過ぎた。

    私が思うに、今の社会は「推し活時代」なのかなぁと思います。
    アイドルや著名人、インフルエンサー、アーティスト、クリエイター、ゲームプレイヤー、絵師、等々、自分の好きな人の情報を得るのにこれほど素敵な時代はありません。
    私も色々な女性を”推し”ているのですけど、YouTubeやTwitterで彼女らの情報を追えて、頑張ればコメントにレスポンスをいただけて、幸せな瞬間が訪れます。

    ちなみに私は、清水あいりさん、仲本愛美さん、山本英さん、上田桃夏さん、ナミノリさん、等を推しています。

    また、”推す”ことによって、同じようなフォロワーとの共感を得る時代なのだと思います。
    「同じくファンです!」って時に、ときめきがある。
    私の場合は「森見登美彦作品が好きです」と言われると、ときめきが訪れますね。「同じ世界を見てるんだ!」って思います。

    このように、ネットコンテンツが豊富になり、配信者と直接繋がれる、頑張れば双方向のやり取りができる。望めばファン同士の交流できる。これを推し活時代と呼ぼうと思います。

    しかし、裏を返せば、プロたちが良質なコンテンツを配信し続けるわけですから、自分が注目を浴びることを望むと、ものすごく大変です。
    たとえば、Instagramなんかをスクロールすると、美女が自身の顔を投稿していて、その下に素人が顔写真をアップしてたら勝負にならないんですよね。悲しいけど。とても悲しいけど見劣りする。

    身近な誰かと仲良くすればいいじゃないかと思いきや、身近な誰かもネットの向こう側に夢中だったりしますからね。
    興味関心が奪われて、素人じゃ見向きもされない。

    マザー・テレサが、愛の反対は憎しみではなく無関心、とかって言ったそうですが、愛がネットに奪われているなぁと感じております。

    そんな社会でみんな藻掻いていて、綺麗な写真を撮ろうとしたり、名言っぽいものを吐いたり、小説を書いたり、YouTubeを上げたりするのですが、アテンション・エコノミーに飲み込まれて、注目を浴びるのは難しい。

    だから、コミュニティが必要だと思っていたのですけれど、ゆるく人を集めても、推しを推すことの熱狂には勝てないようだ。なかなか人が集まらなくなってしまった。
    私自身もただの雑談を求めている訳では無いし。

    ですから、ひたすら「推し活こそ幸せだ」って思えたらいいんです。
    「俺なんて推しの養分だぜ」って。
    それが幸せな生き方です。
    YouTuberを追えばいいんですよ。サロンとかに課金すればいいんですよ。

    ですけど、私はそこまで推し活にハマれないタイプのようで、それだけでは満足できない。
    ある程度の注目の授受というか、フェイス・トゥ・フェイスというか、「面白かったよ」と言われたいし、愛がネットに奪われすぎるのは健全ではないと思う。

    で、若い人はアテンション・エコノミー乱戦時代に打って出たらいいと思うんですよ。
    歌ったり、踊ったり、動画編集したり、特殊スキルのコンテンツを発信すべきだと思います。

    しかし、私のようにそれなりの歳になってしまったからのう。
    打って出るのはしんどいのう。
    小説を書いてはいるが、世はコンテンツ乱戦時代、読む時間を奪えるほどの実力はないわい。

    せめて、数人から師匠と呼ばれる存在にはなりたいのう。

    誰にも注目を浴びれぬ中年にはなりとうないし、
    金で注目を浴びるのは下品だし、
    誰とも関わらず小屋で密かに暮らすのもできなかったし、
    せめて師匠と呼ばれたい。

    最悪の状態はネトウヨみたいになることだからなぁ。
    何かを叩くことでしか仲間意識が感じられなくなったら、マジで終わりだ。

    で、
    さて、
    さて、
    何の師匠になら、なれるの?

    それが問題だ!

  • 交流業から撤退します

    交流業から撤退します

    思うところがあって、幹事業というか、交流業というか、コミュニティ事業というか、人を集める企画をやめようと思います。
    本質的には向いてないことに気づきました。

    「楽しさ」を求めていたのです。
    究極の楽しさです。
    それはやはり、人が集まってワイワイすることを理想としていたし、実際にたくさんのことをやりました。
    BBQ、酒場、人狼会、ボドゲ会、フォークダンス、読書会、登山会、ランニング会、キャンプ部、etc.

    おかげさまで、楽しき思い出は沢山あるし、色々やったということにおいては充実してたし、悔いのない過去だと思います。
    あの日はあんな感じに楽しかった、といっぱい語れます。
    語らないけどね。

    なぜやめようと思うか、その理由は、
    おそらく、1つじゃないのですけど、
    私の本質的な性格は、人との交流を求めていない、という衝撃の事実が浮かび上がってきたのです。

    これは他者との比較によって分かってきたのですが、
    お喋りしたいという欲求があまりないし、もちろんつまらん話を聞くのも好きじゃない。
    うちの母などは喋れば喋るほど元気になります。
    人懐っこい人っているんですよね、楽しそうに喋って、人との交流が大好きな人がいる中で、私はぜんぜん違う。

    実際に、実家の商店で飲み会が行われたりするのですが、それに参加する機会があっても、サッと帰りますからね。
    たぶん交流が好きな人なら、とにかく人の集まりには居残ると思うんですよ。
    これは、帰って小説を書きたいという欲求があるんですけど、小説を選ぶ時点で、交流は二の次なんやなぁと実感しちゃいます。

    そんな性格の私が楽しさを求めて人を集めていたわけですが、本質的には交流を求めてないので、肝心な部分が欠けた企画になるんですよね。
    人を満たせない。

    それでも何かをやりたがって、企画を立ててきたのは、妄想力というか、想像力というか、これをこんな風にしたら楽しそう、と思い浮かんでしまって、過去の経験により行動力も作法も磨かれているので、やっちゃうんですよ。
    でも、続かないんですよ。

    というわけで、続かないし成果は出ないし、人にはがっかりさせてしまう訳ですね。
    ですので、交流事業は我が人生から切ることにしました。

    交流を求める時は、徹底的に外部に頼ることにします。

    私の妄想力や想像力は、小説に重心が移っていて、交流企画を思いつきはするのですが、すぐにしぼむようになった。
    小説も含めて、ものづくりとか創作の方に、時間と力を使っていこうと思います。
    クラフトマンなんですよ、本質は。だから小屋とか、Webサイトとか、料理とか作れるんですよ。
    「人を楽しませる」という志向は変わっていない。
    場を作るのはやめて、モノかコンテンツを作ろうって話です。

    私はね、作品をね、作りたいタイプでね、こういうタイプが交流事業をすると、参加者までもを型にハメちゃうんですよね。自由な動きを許容しない感じ。マナーの良い会にはなるけど、ダイナミズムが生まれなかったかもなー。

    この事実に気づくのに20年くらい費やしてしまったな。
    若いと得意じゃなくても頑張れたりするんだよなぁ。
    楽しい思い出が残っているので、頑張って良かったんですけど、これからはクラフトマンとしての異常に高い能力を活かして、生きようと思います。

    wishigrow、ここに死す。
    2022年6月4日

    新しい名前は、えーっと、
    ドスケベ丸、にしようかな。

  • ミッドライフ・クライシス

    ミッドライフ・クライシス

    たまにはワラクリを開いて、自分の人生について書いておこうと思います。
    もう本当に、私的な文章です。
    最近の人達は(私も含めて)文章を読まなくなったし、それならば自分のためにだけ書いておけば良いのですよ。
    簡単です。

    いや、むしろ文章を書くだけでメンドクサイヤツと思われる世の中になりつつあるかもしれません。
    ただ脳の整理ツールとしてのブログ、ブレインログ、みたいな使い方が流行るかもしれん。

    では本題に入ります。

    中年の危機を迎えています。
    表現が正しいかどうかは分かりませんが、きっとこれだ。青年、あるいは壮年の終わりがきている。
    「ああ、もう、失ってくばっかりなんだろうなぁ」
    という、諦め、展望のなさ、儚さ、みたいなのが押し寄せています。

    これまでは、経験も増えて、体力もランニング等で鍛えていたので衰えはせず、望めば人間関係も増える、小屋などの自分の作品も増えていく。生きれば生きるほど、プラスプラス、まぁ別れはあるけれど、その経験も含めてプラスだと思えていた。

    しかし、42歳を越えまして、足の靭帯が切れてしまったのも大きいのですけど、これから先は失っていく方が多くなるんだな、という気づきがありました。

    と、まぁ、「いや、そんなことはないぞ、まだ若いじゃないか」と切り返されると思うのですけれど、こういう考えがよぎることこそが「中年の危機」と呼ぶのではないでしょうかね。

    好奇心より面倒くささの方が勝る。
    体力が落ちるし、消化能力・アルコール分解能力が落ちる。
    新しい人間関係が築けなくなってくる。
    新しいテクノロジーが使えなくなる。
    時代の空気感が読めなくなる。
    今まで自分の武器にしていたものが、崩れていくなぁと、
    国に敗れてサンバあり、ピーピッピピー、ピーピッピッピーピー! みたいな気持ちです。
    (いや、山河ありやろ!)

    かたや、花とかを愛するようにはなってきてて、小説を読んでいて、食事も肉類を好まなくなってきた。
    一人称も「わし」と言い出すかもしれない。間違って「たか」と言うかもしれないけど。

    どうせなら理想の中年になりたいところだけれど、そうなるにはいろんな点が欠けている。分かっとる分かっとる、そんな準備はしてこなかったもんな。
    配偶者もおらんし、核となる仕事もなく、これだ!という趣味もない(盆踊り・ダンス・ランニング・登山は靭帯が切れた時点で死んだ)。

    ようやくコロナ禍が収束を迎えつつあるのに、気づけば自分だけが歳をとっていたような、浦島太郎に例えたいけど、竜宮城に行ってねーし、なんの物語も生まれん。

    と、ここまではグチグチ、クサクサと文を運んでしまったので、すこし上向き加減のことを書いていくのですけどね、
    まだ夢は描けている。
    右足の靭帯なんかより、夢を失うほうが人間が腐る。
    憂さ晴らしだけで生きたくはない。

    小説を書いている。
    1年半が経過して、分かってきたことも増えてきた。
    小説家というよりは、ストーリーテラーとして自分を認識して、芸術性の高いものではなくて、クライアントのニーズに答えるような作品を生み出したい。
    文章へのニーズはなくなってきているのですが、物語へのニーズは絶対になくならない。人間ってそういうものだ。

    遊ぶ力が衰えてきて、それでもなお社会に存在したいなら仕事しかないとも思ってもいる。

    脳が思考を止めぬ夜もあるし、ぜんぜん起きれない朝もあるし、どこにも出かけたくない昼もある。
    だけど、文章だけはこんな風に世界の何処かに置いておけるから、便利な世の中になった。

    そろそろ、オチに入らないと。
    だけど特に面白いことは浮かばない。
    これまで頼りにしてきた自分の資質が失われ、展望はないよって話だからな、
    遺書みたいなオチにします。

    サヨ、ナラ、

    この世界が僕らにもたらす焦燥から逃れるように
    夜空に向かって駆け出した。
    (↑これはタナトスの誘惑ってのをパクってるんですけどね)

  • 小屋の中身は自分の経験

    小屋の中身は自分の経験

    グロワラクリよりよりお送りしますのは、ナゾノトチの話。

    そもそもナゾノトチというのは、私の祖父が滋賀県の志賀エリアに購入したまま40年くらい放置していた土地のことです。
    その存在に気づいた私は、木々を切り、開拓し、ついには小屋を建てて、その後1年半ほど拠点にしていたのです。

    ですが、その暮らしはやめました。
    これは色んな理由があり、伏見に拠点を設けたこと、移動時間が非効率だと思っていたこと、小説を書き始めたこと、もっと人の役に立つ活動をすべきだと思ったこと、などです。

    やめても、通うことになるとは思っていたのですが、1年もの間放置することになってしまいました。
    これは、小説執筆の精神的ダメージが大きかったからです。
    去年の今頃は、長編小説を書くのに必死でした。
    8万字くらいの小説を書くのはめちゃめちゃしんどくて、びっくりしました。ぐちゃぐちゃになるんですよ、ぐちゃぐちゃに。
    無理して頑張って、精神を病みました。
    その上なんの成果も上がらないし、病み損でしたね。

    精神を病むと本当に復活が大変で、寝て寝て寝て寝て、とにかく寝まくりました。
    まぁ、仕事はしていたし、たまに交流もしていたし、読書会なども精力的でしたけど、誰も待っていないナゾノトチに帰るのは、全く気が乗らなかった。また小説を書くべきだとも思っていたし。

    そして1年が経過した訳です。

    1年も行ってなかったら、荒廃しているんだろうな、あまり行きたくないな。というのが本音になります。めっちゃ掃除せなあかん、カビとか。嫌な気分ですよ。
    ですけど、頑張って行きました。
    それなりに荒れていたし、それなりに無事だった。

    やはりテントみたいなものは風に弱くて荒れ放題です。雨よけに養生シート(いわゆるブルーシート)を多用しているのですが、ウィークポイントですね。
    あと、落ち葉がわんさか溜まっていました。雨を吸ってじめっとした落ち葉ですからその下にはウニョウニョしたやつらがたくさんいます。

    しかし、意外にも私の心はノーダメージで「最初の頃はもっとヒドかったわ」と、やるべきタスクが分かっている感じ。自分の強さを再確認できた。
    そして、自然の強さですよね。包容力というか、すべてを呑み込む力。浄化能力とも表現できる。すべてを土に変えて、植物を育もうとしやがるんですよ。
    自然に逆らうのは無理だな、自然に異物と認識されないように生きよう。
    こんな風に思いました。

    小屋の内部も湿度が溜まって荒れているかと思ったのです、カビとかね。
    しかし、小屋の内部には、なにか感じさせる雰囲気があった。意志というか、魂というか、強き心みたいな。
    過酷な環境で1年半くらい生活しているので、その場に宿る記憶みたいなのがあって、そこにしかないものでありながら、私が持っているものでもある。忘れていた生活力が急に戻ってくるんですよ。
    生きれるぞ俺は、って。

    ただ生きることだけに集中できる、という環境。
    町で生きてると、金を稼がなきゃとか、休日を充実させなきゃとか、注目を浴びなきゃとか、何かを残さねばとか、思ってしまうんですけど、圧倒的な自然の中のちっぽけな小屋にいると、どうやって生き残ろう、というシンプルな思考になって、私にとってこれは浄化だ。
    リセットボタン、押せる。

    我が再生の聖地だな。

    こんな風に至っております。

    コロナは大騒ぎするほどのものではなくなったので、そろそろ人を集められる世相になってきた。
    だから、やろうと思って軌道に乗らなかったナゾトチ会をそろそろ招集しようかと思う。

    第1日曜日の前日、というの私にとってのナゾトチの日にしようかと思います。
    それでスケジュールを組んでみますので、なにか遊びたい人はオファーして下さい。

    他の地にない魅力は、
    ・比良山への登山道がすぐ近く(びわ湖テラスがある山)
    ・琵琶湖で泳げる(徒歩下り7分、上り15分)
    ・実は駅からアクセスできる(上記と同じく)
    ・木々がいっぱい、森林浴やツリークライミングに最適
    ・京都からちょうどいい距離、1時間で行ける上、旅をした気分
    ・ライトなブッシュクラフト経験ができる、ワイルドさを残している。
    ・実は民家が近くて、みんないい人
    ・車で10分走れば公共浴場がある

    などが、私の発見している魅力です。
    他の魅力も発見してくれたら良いなぁと思います。

    自分の生きる力を再発見できた。
    これがあるからこそ、チャレンジできる。
    私の今後の活躍に乞うご期待。