投稿者: 石黒わらじろう

  • 盆踊り発祥祭THE伏見2021

    盆踊り発祥祭THE伏見2021

    雨にも負けず、風にも負けず、コロナ禍にも負けず、盆踊りをやりました。
    そのくらいに盆踊りってのは価値あるものなのです。
    色々と考えて考えて、実験して実験して、サイレント盆踊りというものをやった。
    心が軽くなった。

    終わったことをいちいち書くのは面倒くさいけれど、2021年8月22日(日)、サイレント盆踊り発祥祭THE伏見を実施しました。3名で踊りました。
    この人数では流石に祭りっぽくはなりませんけれど、野外で踊るのは晴れ晴れとした気分になります。
    地元にいながらにして、別世界に行った気分。

    願わくば、提灯も、夜店も、観衆も欲しい。あと、浴衣姿の女子が欲しい。
    望みは大きく、踏み出す一歩は地道に。

    とにかく、我々はやり遂げました。

    盆踊り発祥の地は伏見である。
    なぜならお盆に踊ったと記載してある文献の最古のものが伏見だからだ。
    これには周りのみんなも納得しているようで、
    「ふむふむ、それはいいですね」
    と言う。

    そしてその記載してある日を西暦に直すと、8月22日なのだ。
    だから私は盆踊り発祥祭と銘打って、盆踊り会を開催しようと思う。
    毎年、毎年。

    コロナが明けたなら、地元の人達を巻き込んで開催したい。
    地域貢献だ。
    地元の踊りに拘らず、全国各地の盆踊りが招集されるような会にしたい。
    なぜなら、発祥の地だからな。

    そんな壮大なお祭りの先陣を切って、我々は踊ります。

    盆踊りはブームの兆しがあったのだが、このコロナ禍で壊滅している。
    それでも動く人達が未来の文化を変えていくのだと思う
    踏まれても立ち向かう。
    勇気のある人にだけ見える世界がある。

    今回の会場に選んだ場所は、サイレント盆踊りには向かない場所だった。
    お祭りの会場にこそ相応しい。立地も良いし。

    サイレント盆踊りは変な場所でやったほうがその価値が高まる。
    スクランブル交差点の真ん中とか、
    夜景の見える場所とか、
    誰も踏み入れない森の中とか、
    選ばれた者たちしか集まらないのだから、最高の思い出を残すべく突飛な場所で踊ったほうが面白い。

    あるいは、キャンプファイヤーを囲んで踊るとか、そういうのが向いている。

    終わったことは重要視せず、次の一手を思い浮かべるのが大事だ。
    もっと価値のあるものにしたい。

    2021年の盂蘭盆も地蔵盆も大日盆もこのまま終わりそうだけど、まだまだ面白く踊りたい。

    サイレント盆踊り集団に興味のある方は今後も仲間を募集しますので、ご一報下さい。

    Bonfire盆踊りをやって、ボンカレーを食べる会とかどうですかね?
    もっと普通に、BBQ Bonfire Bondance にしましょうかね。

    ああ、楽しみだ、楽しみだ。
    我々はもっと楽しく生きていきます。

  • 労働をいかに楽しむか? あるいは、娯楽と労働の境目とは?

    労働をいかに楽しむか? あるいは、娯楽と労働の境目とは?

    私は草を刈る。
    軍手をはめて、鎌を持ち、屈む。
    緑の奴らと対峙する。
    草がボーボーになると通りにくくなるし、虫が潜む可能性が高くなるし、草が生える場所は定期的に刈らねばならない。
    庭を維持するのは大変だ。
    いっそのこと、コンクリートで固めてしまおうか。
    雑草など、役に立たぬ。

    私は古い民家を借りたので、古い家らしく庭にぐるりと囲まれた構造になっている。
    おばあちゃんちを想像して貰えれば、だいたい同じような環境だと思う。
    この時代において、庭を保持し続けるのは贅沢なことだと思う。
    要は豊かだと思う。
    しかし私は現代人。
    草を刈るのは面倒くさい。

    こうして労働が発生するのである。

    草を刈るのは難しい作業ではないが、面倒くさいし徒労感がある。どんどん生えてきやがるからな、奴らは。
    電動の草刈り機でも買おうかなぁと思いつつ、メンテナンスが面倒くさいかなぁ、人力で立ち向かう方が面白いかなぁ、などと考える。
    考えているだけでは、草が繁茂する一方である。

    かくして私は草に負けるのだ。
    いや、まさに今日、私は立ち向かった!

    「やる気はやったら出てくる」
    というのが、最近の通説。
    これは正しいと思うけど、それなりの時間を要する。
    草刈りをし始めた直後はため息ばかりだ。

    時間は測ってないけれど、7分くらいかかるんじゃないだろうか、やる気が出てくるまでには。
    徐々に草を刈ることに燃えてくる。
    「めっちゃきれいにしてやる」

    そうして、徐々に思考が回りだして、
    「もっと楽しくやるにはどうしたら良いのかな?」
    と考える。
    「ある意味では、これは領土拡大ゲームと同じだな」
    こういうポジティブな発想が生まれてくる。
    「例えば、100円玉を撒き散らして、宝探しゲームのように草刈りしたらどうだろう?」
    「いや、100円玉はリアルすぎるので、ビー玉を集めて報酬にするのはどうだろう?」
    「草刈りゲームバーベキュー大会をやって、ビー玉の数だけ肉を食べられるようなゲームシステムにしたら?」
    と、まぁ、こういうことを考えながら草刈りをしたら、断然楽しくなりました。
    脳が活性化されて有意義な時間になりました。

    ここからは、労働と娯楽を分かるものは何なのだろうな? と考えた。
    例えば、スマホゲームが流行っていますけど、あれはなぜやるんでしょうね?
    昔、なめこキャラを刈り取るゲームをしましたけれど、リアルな草刈りと何が違うんでしょうね?

    例えば、釣りを趣味とする人がいますけれど、食糧調達なんて、労働の基本なのにそれを娯楽として楽しめるのはどういうことなのでしょうか?

    そういえば、勉強をゲームのように捉えて好成績を収める人がたまにいますけれど、似たところがあるのでしょうか?

    こんなことを考えながら草刈りをしたのです。

    マサオもビックリな草刈り人間と成長を遂げました。

    労働と娯楽の境目は何か?
    やはり、ルールとかゲームシステムとかが重要なのかもしれません。

    草刈りを終えた私は、とりあえず報酬としてビールを飲んでみました。昼間のビールです。
    頭がぽわっとなりまして、思考が閉じました。
    これ以上は考えられません。

    今日のところは、草刈りをゲームと捉えて、システムを整備したら楽しめるんじゃないか、ということ。
    また、それを考えながら草刈りをすると楽しい、ということ。

    これが私の見解です。
    以上です。

  • 反省よりも、次の1歩

    反省よりも、次の1歩

    今日は、無意味な文章を書くということ、について書きたい。

    管理画面には、96日連続投稿、という表示が出ているのです。
    この記事で97だから、あと3日書けば100日連続になる。
    節目までくると気持ちいい。

    何故書くことを続けているかというと、今となっては惰性です。
    もともとは小説を書くに際してスランプに陥ったので、とにかく何かしら書かねばならぬ、と始めたのがきっかけ。
    文章を書くことを仕事にしようとするならば、ババババと打った文字がそのまま価値にならねば無理なんだろうなぁと感じたのです。
    そういう速度感が必要なのかな、と。
    質より量。量をこなせば質も上がる。
    こういう考え方。

    おかげさまで、長編の小説をなんとか書いて、新人賞に応募しました。
    そこまでは良かったのですが、そこから先はぜんぜん書けなくなりました。
    そもそも能力が無かったのか?
    あるいは向き合い方がマズかったか?
    少しだけ自分に幻滅している。

    一つ、こうかなぁ? って思うのは、とにかく反省したらダメなのかもしれない。
    自分が書いた文章を見直して、あれがダメだ、これがダメだ、下手だ、と思っているうちに書けなくなるのかもしれない。

    例えば、ランニングをする時など、さっきの1歩を振り返って、きれいなフォームになるようにと元の場所に戻っていたら、どこにも行けなくなるし、楽しくなくなる。
    あるいは、ダンスなども、さっきの動きは格好良くなかったので、もう一度やり直そう、と思ってるうちに楽しくなくなる。
    ランニングの場合は、次の一歩、その次の一歩をどう踏み出すかが大事だ。
    ダンスの場合は、この動きが楽しい、この動きが好きだ、この動きが美しいと思う、と積み重ねていくのが大事。
    小説もそんなふうに書くべきなんだろうなぁ。

    もっと美しい表現をしたい、ありありとした風景描写をしたい、突き刺すような心理を書きたい、楽しいセリフ、可愛いキャラ、、、もっともっともっと、、、
    こうやって、どんどん進むべきだったんだろうなぁ。

    文章って見直し可能だから、こういう境地に達するのは難しいのかもしれんけれど、終わったことよりも、ああしたい、こうしたいと積み上げるのが大事かもしれん。
    向上心。
    理想を追う力。

    こういうのが湧き上がらないことは、勝負にならないと思うんで、さっさと諦めるのが良い。

    で、私はどうするんだ?
    小説は一旦保留。
    ブログも方針変更。
    無意味な文章で毎日更新を貫くのはもうやめます。
    向上心の湧き上がる分野に素直に取り組んでみようと、決意するところです。

  • 誇りを持って生きとるかい?

    誇りを持って生きとるかい?

    今日は誇りについて書きます。

    昨日、サイレント盆踊りの参加者の1人と喋る機会に恵まれた。
    その仕草や語り口調から感じ取ったのですが、出町デルタで踊ったことをとても誇りに思っている風でした。
    呼びかけ人としては、楽しく過ごしてもらって良かったなぁ、と顔がほころんだ。

    私も京都を代表して盆踊りを踊ったわけですから、ご利益が集まっているのではないかと思う時間がふと訪れたりします。

    だーが、誇らしくはあるけれど、誇りに思うほどではないなぁ。

    ゴールにたどり着くと、もちろん嬉しいのですが、同時に目標の喪失が訪れる。
    そしてゴール達成前の心境には戻れない。
    サイレント盆踊りをやってしまった私は、そこまでやりたがることやったかな? そこまでやる価値のあることかな? と考えている。
    めちゃめちゃやりたかったこと、ですけどね。

    同じように小屋暮らしも、やってみた後では、その意義が分からなくなってしまう。

    どうしてもやりたかったことなのに、やってしまった後では、その大事さの実感がわかなくなる。
    よくあることだと思います。

    考えようによれば、その変容した自分こそが残るべきものなのかもしれません。

    現にサイレント盆踊りをやる前は、「くそう、この夏も盆踊り踊れねぇ!」と思っていた、その気持が解消されました。
    こういう執着から解き放たれるのは、良い心理状態なのかもしれない。

    そう言えば、去年の自分は、穴を掘ってたんですよね。
    竪穴式住居ができるんじゃないかと思って。
    何してたんでしょう?
    相変わらずアホなことばかりをやっています。

    アホなんですけれど、結局のところはこういう点が私の特殊能力かなぁと思います。
    労多くして功少なし、な事に異常な情熱を持って取り組めるところ。

    こういう自分に誇りを持って生きるべきかなぁ。

    打算で生きようとしたり、賢く立ち回ろうとしたり、効率を求めたりもしますけれど、そういう風に生きると、小さくまとまってしまって、つまんないんですよね。

    アホなことやって、
    無駄なことをやって、
    無駄なブログを書いて、
    生きていく。それが私だ。

    できたことに誇りを持たず、チャレンジし続ける生き方に誇りを持とうと思います。

    あ、でも、ちょっと待った。
    無駄なブログを書くのはあと4日で終わりにします。
    その日に連続投稿100日達成しますので、一旦は方針を変える所存です。

    以上です。

  • 盆踊りを少人数で磨き上げる方法は?

    盆踊りを少人数で磨き上げる方法は?

    コロナの収束はいつになるのでしょうか?
    どういう経過を辿りますかね?

    ワクチンがある程度広がったら、正常化されると期待したいたのですが、もう少し先の話のようだ。
    接種率が80%を上回るのは来年の4月とかですかね?

    2019年に止まってしまった針が動き出すのでしょうか?
    あるいは、ワクチンではコロナは封じ込められないのでしょうか?
    分からない。

    こういうことを考えて、盆踊りはどうなるのかなぁ? ということも考えています。

    サイレント盆踊りという、コロナ禍に適応した盆踊り会を実施してみたのですが、大人数で大規模にやるという選択肢がとれない。
    控えめな感じになってしまう。
    色んな障害を掻い潜った選ばれし者たちしか参加できない。

    こうなると、盆踊りらしい大衆向けの会ではなく、先鋭化するしかないのかなぁと思う。
    選ばれし者が集まっているうちに、みんなで楽しく踊るという思想に変化が訪れ、パフォーマンス集団になっていくのではないのでしょうか?

    ここで、は! と気付きました。

    これまでの踊りの歴史でも、疫病による分岐があったのではなかろうか?

    私にとって踊りとは原始からの娯楽だ。
    縄文人とかは全員が踊ってたんじゃないですかねぇ?
    炎を囲んで、肉を焼きながら、踊ったんじゃないですか?
    「好きです」っていう言葉がない時代は、それを伝えるために、踊ったんじゃないですか?

    本来であれば、原始からのみんなで踊る文化が残るはずなんです。
    しかし、今の日本にはぜんぜん踊らない人もいる。
    これってつまりは、踊りの文化がどこかで途絶えたわけです。

    何によって途絶えたのか?
    戦争とかがあると思いますが、疫病もその一つかもしれない。
    人が集まることが禁忌となる何かによって、みんなで踊る文化が数年に渡って途絶えたのかもしれない。

    で、この際、踊りを我慢できない人達がいたのだと思います。
    この人達が、少人数で踊りを先鋭化させて行ったのではないでしょうか?
    歌舞伎とか、日舞とかになったのでは?

    現在のような疫病の際に、みんなで楽しむ踊りが、パフォーマンスやショーとしての踊りに変わるのかも。

    私は前々から、音楽と踊りは双子、あるいは恋人のような存在だと思っていた。
    音楽ってのは踊りのためにある。
    しかし、現代では踊らない音楽もあって「どこで離れ離れになってしまったのかなぁ?」と不思議に思っていました。

    今、コロナ禍になって、人が集まれなくなって、みんなで踊る機会が壊滅しています。
    こういう時に、音楽と踊りは別れていくのかもしれない。

    ただの仮説ですけれど、こんなことを考える今日です。

    こういう風に、文化の分岐点に自分は存在しているとする、それでも踊りたいとする。
    じゃあ、みんなで踊るのは一旦置いといて、少人数で技を磨き上げる方向に舵を切るべきなのかもしれません。

    それでも踊りたい!
    って決意した人達が、新たな文化を作り上げていくのかもしれません。
    情熱ですな、情熱。

    以上です。

  • もしもボックスみたいな小説「パドルの子」

    もしもボックスみたいな小説「パドルの子」

    今日は読んだ本の話。
    虻川枕さんの「パドルの子」を読了しました。
    謎が多くて、読み進めるのは面白かったです。

    日本列島が豪雨に襲われていますね。
    九州や中国地方が顕著なようですが、我が京都でも逢坂山が土砂崩れで通行止めになるくらいの被害が発生しています。
    そんな中「パドルの子」という小説を読みました。水が密接に関わってくる現代を舞台にしたファンタジー小説です。

    主人公は中学生で、友達のいない地味な帰宅部の男子。
    ある日、同級生の美女と学校の屋上で鉢合わせするとともに、不思議な力を持つ水たまりの存在も知る。
    この水たまりに潜って「パドル」をすると、世界が変わる。ドラえもんもしもボックスのような効果です。
    また、その効果をどんどん重ねていける。
    自分もパドルを操るようになるけれど、美女の方がパドルを操ってなんだか辛そうだ。
    何故なんだろう?

    と、簡単に書いてはみましたが、たいへん複雑な世界になっています。
    なぜなら、美女が変えた世界を変わってないものとして主人公が生きるからです。
    作中の時間軸で美女が世界を変えてしまうと、主人公はその世界を生きてしまうし、我々読者も
    「携帯電話を持ってなかった?」
    「車にのってなかった?」
    「その人、死んでなかった?」
    ってとても混乱してしまいます。

    世界が変わり、過去も変わり、記憶も変わる。
    「え? 何でこうなったん?」
    と、謎が積み重なっていきます。

    謎が積み重なるので、後半は一気読みしてしまいました。
    なかなか面白かったです。

    親子のエピソードも良かったです。

    ドラえもんもしもボックスと言えば「魔界大冒険」ですよね。
    猫になっちゃう魔法少女と魔王を倒しに行く話。
    パドルの子」には公衆電話が出てきて、時代背景が変だなぁ、と思ったのですが、これはもしもボックスへのオマージュとして、作者が忍ばせたのかもしれません。

    さて、私が中学生の時にパドルができたら、何を望んだでしょうか?
    「すべての女性が真っ裸で街に出歩く」
    そんな社会にしてしまったかもしれません(笑)
    あるいは、
    「ゲームをしてたらお金が稼げる社会」
    「ドラクエみたいな世界」
    「かめはめ波が出せる世界」
    こういうしょうもないことを考えるのが、実際の中学生だと思います。
    こっちのほうが、ある意味ピュアですよね。

    その点で「パドルの子」の主人公達は欲望がなさすぎるし、その分、ご褒美的なものも少ない気がしますね。

    主人公たちは、私のようにピュアではないので、雨が降ること自体を無くそうとしちゃうんですよ。
    そうするとどうなるのか?
    豪雨災害はなくなるのでしょうか?
    それは本書をお読み下さい。

    私は大人になりましたから、中学生の初恋物語を読んでも、さほどトキメキません。
    また、すべての女性が全裸で街を歩くのも望みません。
    それは、、、

    「君を脱がす喜びがなくなるから」

    (笑)

    今日はちょっとエロく締めることになりました。
    以上です。

  • 京都サイレント盆踊り物語2021

    京都サイレント盆踊り物語2021

    出町柳に向かう電車の中で、私は少し怖気づいていた。
    人生初の一歩を踏み出すときの、あの不安と期待が入り交じるドキドキとワクワクです。
    サイレント盆踊りという未体験なものを自分が主催しちゃうプレッシャーにひくひくと震えがくる。
    しかし私は気付きました。
    「クレイジーにチューニングすればええんや」
    一般人のままでは、サイレント盆踊りなんてできねぇ。自分の周波数を狂ったところに合わせたら、訳わからぬことをしても平気だ。
    電車に揺られながら、私の心は変化していったのです。

    コロナのせいで、やりたいことができない。
    それが1年半以上も続いている。
    去年も盆踊りが壊滅して、今年も同じく壊滅した。
    しかしこの現状を受け入れるか、抗うかの自由を私は持っていて、
    「自分にできることをしよう」
    と、堅く決意する、、、訳でもなくて、1歩づつ踏み出していく感じ。

    とある盆踊り会が直前で中止になって、モヤモヤしました。
    だから室内で1人で踊ってみた。これが意外にスッキリした。
    翌々日、散歩のついでに、屋外の公園で踊ってみた。室内で踊るより爽やかで楽しかった。「サイレント盆踊りできそう」って実感しました。
    1歩づつの経験で、この企画は立ち上がりました。

    こうして私は呼びかけ人になり、様々と準備やテストを重ねて、開始2時間前に出町デルタにたどり着いた。
    お盆であるし、ちょうど送り火の日です。

    どこなら踊れるか?
    と思案し、歩いた。
    河川敷にはスペースがある、だが送り火なので往来の邪魔になるのは良くない。踊って迷惑にならない場所はどこだろう? 少し上流の方に行くべきだろうか?
    いちゃつくカップルや、1人でビールを味わう男性、場所取りしている外人さんを横目に見ながら視察。

    この時もやはり、クレイジー、がキーワードになりました。
    折角なので一番クレイジーな場所が相応しい。

    こうして、彼の地に定めました。

    私はビールを買ってきて、河川敷に佇み、約束の時間を待ちます。
    空を見上げると、文字通り暗雲が漂うのです。雲行きが怪しい。
    一昨日降りしきった豪雨によりワイルドさ増した鴨川。
    空気は湿り気を帯びている。
    送り火を待つ人達が、河川敷に腰掛けている。
    そんな中、私は音響のテストとして、1人で踊ってみる。
    「狂人、現る!」
    と、思われたことでしょう。

    辺りは暗くなり、サイレント盆踊りの開始時間が近づく。
    ここで、仲間がやってきてくれるのです。
    私はとても安心しました。
    「踊れるぞ」
    と確信しました。

    19:00、音頭の開始とともに、ちょうど雨が降ってくる。まるで狙ったように。
    1時間しかないので、中断する選択肢はありません。
    雨の中を踊る。狂気さが増して、丁度いい。

    炭坑節、河内音頭、郡上おどりのかわさきを順に踊りました。
    ロケーションがめちゃめちゃ素晴らしくて、踊りのスイッチが入ります。
    暗くなったので、周りの人の視線は気にならなくなりますし、むしろ「もっと見ろ」という気持ちが湧いてくるほどでした。

    程なくして、もう1人が仲間に加わり、盆踊りの輪が成立すると、さらにムードは増した。
    江州音頭、郡上おどりの春駒を踊った。
    周囲を気にしながら踊りましたが、特に迷惑がっている人はなく、ソーシャルディスタンスは確保され、完璧なサイレント盆踊りになった。

    提灯に覆われたまさに夏祭りといった盆踊り会も良いけれど、ただそこにある風景、要は借景に頼ったサイレント盆踊りもかなりメリットがあると実感した。
    楽しく、心地よく、踊った。

    20:00、ほどほどに汗をかき、盆踊りを終える。
    少し移動すると、大文字の送り火が見える。
    控えめな送り火だが、ラストに夏の風物詩を楽しめるのもパーフェクトだった。

    そして、サイレント盆踊りの成功を祝して缶ビールで乾杯。
    祝杯を上げた。
    気持ち良くなった勢いで盆踊りトークを繰り広げてしまった。
    好きなことを語れるのは嬉しい。

    こうして、我々は京都盆踊り界に新たな歴史を刻みました。
    いや、盆踊りのような民藝は歴史なんて残らないだろう。
    ただ文化が残れば良いのだ。
    恒例行事になるべく力を尽くしたい。

    今回の4人が英雄視される未来がくるといいなぁ。
    せきはん
    マーシー
    ひろむ
    石黒わらじろう

    各地の盆踊りが中止になる中、率先してお精霊さんの魂を慰めた我々に栄光あれ!

    私はこんな風にサイレント盆踊りを実施し、家に帰った。
    なんだか夢心地です。
    実際の出来事なのか分からなくなるくらいに、非日常で、ファンタジックだった。
    なんだか本当に踊ったのか確証が持てないし、踊ったのが自分だったのか疑わしい。

    8月22日にもサイレント盆踊りを実施予定で、この時にはもっと実感が湧くかなぁ。
    かなり楽しいことが分かったので、人を積極的に誘えます。
    興味のある方はこちらをご参照ください。
    >>【boncer募集】サイレント盆踊り発祥祭THE伏見(8.22)