私は草を刈る。
軍手をはめて、鎌を持ち、屈む。
緑の奴らと対峙する。
草がボーボーになると通りにくくなるし、虫が潜む可能性が高くなるし、草が生える場所は定期的に刈らねばならない。
庭を維持するのは大変だ。
いっそのこと、コンクリートで固めてしまおうか。
雑草など、役に立たぬ。

私は古い民家を借りたので、古い家らしく庭にぐるりと囲まれた構造になっている。
おばあちゃんちを想像して貰えれば、だいたい同じような環境だと思う。
この時代において、庭を保持し続けるのは贅沢なことだと思う。
要は豊かだと思う。
しかし私は現代人。
草を刈るのは面倒くさい。

こうして労働が発生するのである。

草を刈るのは難しい作業ではないが、面倒くさいし徒労感がある。どんどん生えてきやがるからな、奴らは。
電動の草刈り機でも買おうかなぁと思いつつ、メンテナンスが面倒くさいかなぁ、人力で立ち向かう方が面白いかなぁ、などと考える。
考えているだけでは、草が繁茂する一方である。

かくして私は草に負けるのだ。
いや、まさに今日、私は立ち向かった!

「やる気はやったら出てくる」
というのが、最近の通説。
これは正しいと思うけど、それなりの時間を要する。
草刈りをし始めた直後はため息ばかりだ。

時間は測ってないけれど、7分くらいかかるんじゃないだろうか、やる気が出てくるまでには。
徐々に草を刈ることに燃えてくる。
「めっちゃきれいにしてやる」

そうして、徐々に思考が回りだして、
「もっと楽しくやるにはどうしたら良いのかな?」
と考える。
「ある意味では、これは領土拡大ゲームと同じだな」
こういうポジティブな発想が生まれてくる。
「例えば、100円玉を撒き散らして、宝探しゲームのように草刈りしたらどうだろう?」
「いや、100円玉はリアルすぎるので、ビー玉を集めて報酬にするのはどうだろう?」
「草刈りゲームバーベキュー大会をやって、ビー玉の数だけ肉を食べられるようなゲームシステムにしたら?」
と、まぁ、こういうことを考えながら草刈りをしたら、断然楽しくなりました。
脳が活性化されて有意義な時間になりました。

ここからは、労働と娯楽を分かるものは何なのだろうな? と考えた。
例えば、スマホゲームが流行っていますけど、あれはなぜやるんでしょうね?
昔、なめこキャラを刈り取るゲームをしましたけれど、リアルな草刈りと何が違うんでしょうね?

例えば、釣りを趣味とする人がいますけれど、食糧調達なんて、労働の基本なのにそれを娯楽として楽しめるのはどういうことなのでしょうか?

そういえば、勉強をゲームのように捉えて好成績を収める人がたまにいますけれど、似たところがあるのでしょうか?

こんなことを考えながら草刈りをしたのです。

マサオもビックリな草刈り人間と成長を遂げました。

労働と娯楽の境目は何か?
やはり、ルールとかゲームシステムとかが重要なのかもしれません。

草刈りを終えた私は、とりあえず報酬としてビールを飲んでみました。昼間のビールです。
頭がぽわっとなりまして、思考が閉じました。
これ以上は考えられません。

今日のところは、草刈りをゲームと捉えて、システムを整備したら楽しめるんじゃないか、ということ。
また、それを考えながら草刈りをすると楽しい、ということ。

これが私の見解です。
以上です。

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投稿者: 石黒わらじろう

京都の古い民家で暮らしている。 趣味はランニングとブログと盆踊りを含むフォークダンス。 別名義で書いた小説は映画の原作として採用された。 自分で建てた小屋にて暮らしていたことがある強靭な狂人。 地球にも自分にも健康な生活がしたい。

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