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  • BIEDEの京都レセプションに山本英さんを聴きに行く

    BIEDEの京都レセプションに山本英さんを聴きに行く

    雨に煙る京都を傘もささず進む。四条烏丸から西へ。
    夕方の通行人たちは、今からご飯♪ というような気配を漂わせ、食事への期待に心と胃袋を踊らせているに違いない。
    拙者は足早に歩く。期待と不安の感情に追いつかれないように。
    期待はというと、1年以上ぶりに推しのフルーティスト山本英さんの音色が聴けること。
    不安はというと、その演奏はBIEDE(ビエダ)というブランドのレセプションパーティーで行われるということ。
    演奏会であればチケット代を支払い、客として振る舞えるのだが、招待もされていない、関係者に知り合いもいないパーティーにノコノコ出かけるのは恐怖であり、服装を選ぶ段階でも困惑し、スーツに袖を通した後もドギマギし、なんだか娘の晴れ舞台を観に行く父親のコスプレをしているみたいだなぁと鏡に映った自分を評価し、ずっと平均台の上に立っているような心地であった。グラグラする。
    こういう時に、人は早足になるのだ。

    2023年4月15日(土)18:00~、node hotelのロビーにて、BIEDEのバックの展示、写真家の作品の展示、歌代ニーナ氏によるパフォーミングファッションショーが実施され、プログラムの一部にフルーティスト山本英さんも出演された。

    このような会は拙者にとって別世界のものであり、実施概要を読む段階で壁を感じた。
    だが参加一択。なぜなら山本英さんの演奏を聴く機会が希少すぎるゆえだ。3年前からのファンなのだが、折しもコロナ禍で過去3回しか演奏会に行っていない。
    今回は京都でのご出演とのことで絶好の機会。

    京都は拙者のホームグラウンドであるので、多くの友人に英さんの音色を聴かせたいと思ったが、今回はブランドのレセプションなので、その空気に合いそうな友人数名だけに声をかけたところ、1人が二つ返事で参加を表明してくれた。
    会場に着いた段になり、客でもないし関係者でもない自分の存在はやはりグラグラであり、その友人がいてくれたことはとても心強く、感謝である。
    彼女には自分の弱みをみせても大丈夫だと経験できたことは、今回の収穫の1つになった。

    拙者はあらゆるファッションブランドを存じ上げないし、BIEDEも同じくであるが、どうやらバックをメインに製作されているようで、バックが床に直置きで展示されていた。
    そのバックたちは不思議な硬質感があって、石を削ったかのよう。友人は「ジェンダーレスがコンセプトなんじゃないの?」と言った。なるほど、バックは女性が持つものだと思っていたが、改めて見ると性別を問わないプロダクトなのだと思ったし、そういう時代なのだとも思った。
    というのは、家に帰ってからの感想であり、会場にいた時は常にドキドキしていたので、製品を評価する余裕などなかった。

    ドキドキする理由は主に3つあって、1つ目はすでに言及した通りで、自分の存在の不確定さである。
    2つ目は山本英さんの近さである。
    いつもはステージ上にいらっしゃるお方なのだが、今回はステージを設けられず、すぐそこに控え、すぐ眼の前でフルートを奏でられた。なんら紹介も挨拶もなく、興が乗ったから音を鳴らしちゃった、というように。
    薄暗い照明の館内、BARエリアはざわざわしていて、さぁ今から何かを始めます! と言うこともなく、突如として歩きながらフルートを奏でる。
    これができるのはすごい。演奏者の能力だけではなくて、半分はダンスであったし、舞台女優でもあって、演奏しながら遠くを見つめる瞳の清らかさや、何らかの哀しみに肩を落とす仕草、音色だけではなく動画や写真に映ることを前提としたポージング。総合芸術だった。
    英さんが自分の目前でパフォーマンスをされているのは貴重な機会で、拙者はすべてを味わおうとするのだが、視覚情報も聴覚情報も漏らさぬようにと脳が忙しいし、あまりに近すぎて、ドキドキする。
    ヒュっと短いフルートの音は投げキッスのようで、とろけそうになった。
    このように何が行われるか分からないのが3つ目のドキドキで、結果的には4ターンの演奏があったのだが、どんなタイミングで演奏が始まるのか? その演奏もどこにどう動くか? が分からず、幼き頃に知らない地下街に迷い込んだ時のような心地。
    これらのドキドキが複合的に重なって、よし告白するぞ、というデートの時のような胸の高鳴りを味わった。

    ざわざわしたBARエリアで突如として演奏して道を切り開くシーン、床にペタンと座るシーン、そして上記の投げキッス、これらが最高に昂ぶったので憶えておきたい。

    自分の心臓の音がうるさかったし、周りがざわざわしていたし、ホテルのロビーであるし、自分の心と英さんの音をダイレクトにつなげるには苦労したけれど、後半では永遠のような一瞬が訪れて、いつものゾーンに入れた。
    山本英さんの音色を聴くと、時間や空間が意識から消える時があって、それを演奏会のたびに味わわせてもらっておるので、拙者はファンなのである。
    最後の曲はサティのジュ・トゥ・ブーであったことくらいしか、音楽については分からぬレベルのファンではあるが、英さんの音色が多くの人を魅了し、「今日の演奏も良かったねー」と語り合える人が増えるようにと期待。

    山本英さんの演者としての仕事っぷり、BIEDEのコンセプト、企業と芸術家の関係、友人の心強さ、あの空間に自分を存在させるにはどうしたら良いのかという疑問、これらの刺激を受けてとても満足している。
    会場へは早足で向かったけれど、去る時は踊るような足取りだった。
    音色を胸に秘め、明日からも生きていく。

    以上。

  • 飛脚棒で走ってみると分かること

    飛脚棒で走ってみると分かること

    飛脚は棒の先に手紙を挟んだり箱を付けたりして走ったらしい。
    実際に見たことはない。
    それはたぶん江戸時代の話で、今とは走り方も違ったのではないかと言われている。

    令和時代に生きる拙者はというと、飛脚では稼げないので、ランニングは趣味であり、ただ走るだけではなく、走った後のビールや銭湯、トレラン、旅ランなども好んでいる。
    ランニングは簡単なスポーツだ。家を出て、適当に走って、家に戻れば良い。
    だが、銭湯をゴール地点にするには少し計画性が必要だ。
    よくあるパターンは銭湯まで行き、荷物を置かせてもらって、数キロ走り、銭湯に戻る。A to A のパターン。
    しかし、A to B をやる人もいて、そういう人はトレランリュックに着替えを詰めて走るらしい。

    拙者は思う。トレランリュックを買うべきかなぁ。しかし背中が蒸れるのは嫌いなんだよな。できればリュックを逆にして胸側に抱える方が好き。うーむ、トレランリュック、いらんなぁ。
    そういえば飛脚って、リュックを背負わないよな!

    というわけで、飛脚棒に銭湯セットを釣って走ったらどうなるのか? やってみた。

    ちなみにWebの記事では飛脚棒を使ってみる記事はそこそこある。
    しかし、記事のための企画って感じで、本気度が足りない。こっちは実用性を求めているんだ。
    トレランリュックを超えれるか否か、それが知りたい。

    花粉が飛びまくっている春の土曜日。梅は散りはじめ、サンシュユが咲いたり、木瓜の花が目立つようになってきた。
    だいたい決まったいつものコースを走る。違うのは竹の棒にトートバックを付けて担ぐこと。

    竹は20年は経ったような品だが、取り付ける部分は近代的にカラビナとトートバックにした。

    飛脚棒を持って道を歩くなんて、周りの人が誰もやってないから、ちょっと恥ずかしい。
    だが、白日の下に持ち出してみると気づいたことがある。

    杖に擬態できる

    飛脚棒は肩に担ぐから飛脚棒なのであって、地面につけると杖だった。
    杖を持っているのは変じゃない。険しい山に向かう人か、ノルディックウォーキングみたいになるので大丈夫。

    杖状態で近くに駅まで行ってみて、いよいよ担いでみる。

    選択肢が多い

    飛脚棒を肩に担ぐだけだが、選択肢が多い。
    右肩か左肩か。どの程度荷物を遠くにするか。手で持つ位置はどこにするか。持つ角度はどうするか。
    どのポイントが楽なのか、安定するのか分からなかった。

    そして車とすれ違う時にも効果を発揮する。

    強くなる

    どうも人間の心理は長い棒を持つと強くなるようで、いつもなら車とすれ違う時は逃げるように遠ざかるのだが、棒を持っていると戦うすべがあるような気になった。強い!
    また、存在感もアップして、車が気をつけてくれそう。

    むしろ、棒を持って走ることに子供の頃から憧れていたような気になった。
    ドラゴンボールとかでね。

    しかし、人目にさらされているのである。

    人の視線はちょっと気になる

    まぁ、普通に生きている人は、飛脚棒を担いだ人とすれ違わないので、視線がむくよね。ちょっと無視できない存在になる。
    たぶん多くの人に見られる。
    その分、頑張って走り去る。

    走っていると徐々にしんどくなってくる。

    姿勢が良くなるかな?

    これは検証できていないが、肩で棒を支えるので姿勢が良くなるはず。
    だとは思うのだが、変な姿勢になる可能性もある。片側に力が入ったりするから。
    ちょっと分からん。
    とにかく途中から、姿勢をキープするのがしんどくなる。
    棒を持ってる手がだるくなってきたりもするので、左右を変えたりする。

    そうすればいつものように走れるかと思うが、そうではない。

    速くはない

    今日の調子なら、1kmあたり5分台で走れたはずである。
    しかし結果は6:21だった。やや遅いペース。
    また、上半身を動かさないようにしようとするあまり、走りがぎこちなくなって疲れる。
    この点、トレランリュックの方が速いんじゃないかと思う。

    あと、心理にも少し影響がある。

    地位が下がった気持ちになる

    これは不思議な心境だが、棒を担ぐというのは、やはり原始的であり野蛮な印象。
    また、振り売りの印象もなぜか持っており、駆け出しの下っ端感が出てしまう。
    自分の中の歪な価値観を発見した。

    というわけで、ぜんぜん使い物にならないわけではないし、そこそこ走れる。
    今回は練習なのでA to A だったのだが、目的地を変えて本番をやってみるべきだ。
    どうしてもリュックの背中の蒸れを許容できないからなぁ。飛脚棒でなんとかなるなら、ちょっとだけ嬉しい。
    あと、山でクマに遭遇したとき、トレランリュックでは牽制できないけど、飛脚棒なら……。
    いや逃げろ。

    夏場になったら進化して、ふんどしで走ってみるかもー。

    以上。

  • 何者にも成れなかった、と認めてからの話

    何者にも成れなかった、と認めてからの話

    最近は人間関係が楽で、常に余裕のある状態を保とうと心がけているし、勝ち負けも、人からの評価も、目標達成もどうでも良くなってきた。
    何者にも成れなかったし、何者かに成ることをほとんど諦めて、そんな場所に拙者は立っている。

    これまではけっこうしんどかったよな。
    だって何者かに成りたかったから。
    近いのから順番に言うと、ここ2年間は小説家になりたかったし、その前は小屋暮らし最強マンになりたかったし、その前は自分の店を持ちたかったし、その前はダメな奴じゃないと証明したかった。
    しかし何者にも成れぬまま、想いが潰えてしまった。

    まぁ一応、映画の原作者として名は刻まれているし、小屋暮らしは新聞にも取り上げられたし、素敵な女性の彼氏だったこともあるし、誰かから少し尊敬されていることもあるので、誰かにとってみれば何者かではあるかもしれない。
    だけれど、自分で思い描いた何者かには成れていない。
    あの日、歯を食いしばりながら夕日に向かって走って、「何者かになってやる」と叫んだ、その何者かには成れていないし、その日の記憶もないし、たぶん叫んだこともない。そういう気持ちだったってこと。

    今でも小説家になろうとはしているが、とりあえず持っている夢くらいで、自分のアイデンティティをぶっこんだりはしていない。
    「小説家に成らなければ、自分が生きる意味などない」って昔ならば思い込んだところだが、今は「愉しんで続けられた先にあるかな~」と成れても成れなくても自分の延長線上という感じ。

    今は何者かに成ることよりも、健康でいることや余裕を持つことに価値を置いている。
    いつもニコニコしていられる余裕、誰かをスゴイなって認められる余裕、手を差し伸べられる余裕、さっさと手放せる余裕。これらを持つことが大人って感じがするし、評価を得るよりも上位の価値を置くようになった。
    これが、何者にも成れなかった、と認めてからの世界かなって思う。

    40を超えて体力がなくなり、価値観を変えなきゃならんから変わったのかもしれんし、小説をたくさん読んでるおかげかもしれんし、そこそこやりたいことにチャレンジしてきたせいかもしれん。
    とにかく変わったし、やっと楽になってきた。

    誰からも愛されない。それでも何かを一方的に愛し続ける余裕を持とうと思う。
    不惑ってのはこういうことかもしれんよね。

    以上。

  • とあるランクラブはコスパ最高で誰にも教えられない

    とあるランクラブはコスパ最高で誰にも教えられない

    ランニングサークルを考える」という記事を書いたところ、情報を教えて頂き、また誘って頂き、さっと参加したところ、めちゃめちゃ良すぎて誰にも教えられない。

    拙者はランニングを趣味としており、10年以上の歴がある。
    基本的にはゆるランナーで向上心はないのだけれど、どうせなら自己ベストは更新し続けたいし、1kmあたり5分の速さは常に出したいと思っている。
    せっかくの趣味なので、ランニングサークルに顔を出したらもっと楽しめるかなぁと思いつつ、志向の違いや面倒くささにより、一歩も踏み出せないでいた。

    と、このような記事を書いたら、ちょうど良いのがあると誘ってもらえた。
    ありがとうございます!

    その日は雨予報の土曜日で、ランは中止なのかも? と気をもんでいたけれど、どうやら決行らしい。
    某所に16:00集合で、午前午後とも家でダラダラ過ごし、気がつくと15:00になっており、慌ただしく準備した。
    一度は家から出たものの、防寒具を忘れて取りに戻る。
    それゆえ時間がギリギリになり、走って駅まで向かう。
    ちょうど電車に乗れたものの、焦った状態が祟ってか、電車を降りた時にはグローブが失くなっていた。
    ショック!

    某所にはすでに知ってる人が3名で、他には6名がいて、拙者を含めると10名。
    人数もちょうどいいし、知り合い率も高くて、安心。
    記念撮影の後スタートだが、ウォーキングのチームと分かれたので8人が一緒に走る。その中の1人は翌日の京都マラソンにエントリーしているらしく、調整ランということで早々に離脱。7人になる。
    河川敷を走る。まだ肌寒い冬の気候。
    ペースは1kmあたり6分ほどで、喋りながら走るとかなりしんどい。だが、一緒に走るわけだから、ちょっとはコミュニケーションとらないと意味ないよな。
    「普段はどのくらい走るんですか?」の質問に「毎日15キロ」と返ってきたので、『やべえ、レベルが違う』と焦った。
    流石にその方は喋っていても息が乱れない。
    それでもその方いわく「もっと鬼みたいな人たちがいる」とのこと。
    怖い世界だ(笑)

    主催の方が先導してくれて、その背を追いかける。部活みたいだった。
    折り返し地点まで来たものの、参加者の1人が膝に痛みを抱えたらしく、離脱。6人になる。
    最後の1人になるまで走るというデスゲーム的なサークルではないので、8km走ってフィニッシュ。
    ちなみに、離脱した1人のために自転車で迎えに行くメンバーがいて、そこに友情の物語があった。感動的である。
    いつもだいたい1時間で10kmほど走るらしい。
    また、別に同じペースにこだわってなくて、速い人はさっさと行っても良いくらいの柔軟性。

    その後は、銭湯へ行って、汗を流し、体を温める。
    裸の付き合いが生まれる。
    ぽかぽかになった。

    いよいよここから、走って風呂入ったその体でビール。乾杯。
    1杯目はサービスしてもらえた。
    ありがたい。サービス良すぎる。1杯の恩、忘れじ。

    一緒に走った人たちとの飲み会で、何のこともない会話をし、わいわいとビールを飲んだ、旨すぎる。

    フランス人の子どもがお店に来てて、UNOをやりたいと言うらしく、走ったメンバーとプレイして盛り上がる。これ見よがしに「UNO!」と言う。ちなみに子どもが勝利して、とても平和にゲームセット。

    と、こんなランニングサークル。
    良いペースで走れ、湯にも入れ、ビールも旨く、知り合いも増え、会費はゼロ円なので、コスパ最高すぎる。
    色んな人にオススメしたいのは山々なのだが、いかんせん今の規模感が最適だと思うので、メンバーを増やすのはいかがなものか。
    だから大っぴらには書きづらい、変に情報を流して雰囲気が壊れたら嫌だからなぁ。
    耳打ちレベルだけで、ヒソヒソと教えることにしよう。

    そもそもランニングサークルはコスパもタイパも高い。
    体を鍛えれる上に、交遊も捗る、いちいち自己紹介しなくても仲間感が醸成されるし。
    あと運動してる人はサッパリした人が多い、こだわりがないというか爽やか。
    拙者は球技が苦手なので、ランニングサークルがちょうど良い。
    身近な人の記録に引っ張られて、タイムも伸びるんじゃないかと期待している。
    良い事ずくめだ。

    もっとさっさと参加しとけば良かった。
    拙者の人生に必要なのはこれだった。

    以上。

  • 人生の終盤は定食屋として生きたい

    人生の終盤は定食屋として生きたい

    将来設計というほどは綿密な計画ではないけれど、人生の終盤は定食屋として生きたいと思っている。

    何歳まで生きるかによって、いつから終盤なのかは変わるけれど、たとえば80歳まで生きるなら60歳からが終盤という気がするし、70歳までなら50歳からが終盤となるかな。
    50はそこそこ近い将来の話だなぁ。

    日本がどうなるか、世界がどうなるか、テクノロジーは、仕事はと考えても全く分からない。
    車が自動運転にはなるだろうなぁと思うし、食べ物はロボットが作るだろうなぁとも思う。人の多くは仮想現実空間で過ごし、人との交流はその世界で完結するだろう。

    そんな社会にあっても拙者は対面交流にこだわり続け、体を動かして遊び、相変わらずリアルな場で人を集めたがると思われる。
    走って、焚き火して、酒のんで、盆踊りするだろう。
    しかし、年老いて遊ぶ力がなくなり、奇抜な企画力も衰え、人との交流が徐々に途絶えていく。
    みんな仮想空間に行ってしまって「独り取り残されてしまったのう」と、ぢっと手を見る。
    そこで、定食屋だ!

    食べ物さえ提供していれば老若男女問わず人が集まってくるはず。
    もちろんあらゆるものが機械化されて、人が作る料理というのは前時代的なものになるのだけれど、自分のために誰かが作った料理というのはめちゃめちゃ貴重で、それが非日常体験になるだろう。
    拙者はそれを提供できる。

    拙者の憧れる老後は、縁側でゆったりお茶をすするのではなく、旅行して回るでもなく、いつまでも自分の技術なり商品なりを求めて、人が集まってくることだ。

    というのも、ご隠居生活みたいなのはすでに十分堪能してしまった。
    そして分かった。
    自分だけのために時間を使うのって、さほど幸せなことではない。
    誰かを喜ばせるために使う時間の方が、幸せだ。

    調理技術はすでにあり、修行期間は必要ないのだが、今すぐにはそれをしない。
    まだまだ阿呆なことをやれるうちにやっておく。
    それができるのも、7~12年といったところか。

    なかなか短いものだなぁ。
    精一杯生きないとねぇ。

    以上。

  • 告白をしてもないのにフラれた話

    告白をしてもないのにフラれた話

    目を閉じて、その子のことを思い返してもまだ好きでいれる。
    だけど拙者はフラれたので、これは情けない話である。

    普通の男性はフラれた話など大っぴらに語らないのだけど、拙者はフラれたストーリーを書かせれば日本一の称号を目指しておるし、意外にこういう話は女性からのニーズが高いと、うすうす感づいておるので、これから堂々と語りたい。

    もう5年くらい前から好きだった女の子を呼び出して、意を決して告白したけれど、「もっと早く言ってくれたら良かったのに」と断られた。
    というような話であれば、悲壮感を漂わし、拙者の心理描写を書き尽くしたいのだけれど、そういう話ではない。

    「好き」にはグラデーションがあるし、そこそこ大人になっているので恋心は育てるものだと知っている。
    20代の頃は頻繁にメールを返してくれる女の子をことごとく好きになったものだが、今では長々とメッセージのやり取りをするのが面倒くさくなってしまった。
    昔は「ちなみに好きな食べ物は何ですか?」などと、疑問形のメールを文末に加え、その返信にまた疑問形で返し、やり取りが途絶えない工夫をしていたのに、今では何の工夫もせずに、やり取りが続かないから相性が悪いんだなぁと解釈している。

    要するに、無理してパートナーを得ようとか、恋愛しようとか、そういう気持ちは霧散した。

    そんな中でも、可愛い~と鼻の下が伸びてしまう子やお気に入り登録したいような子もいるし、よい機会があればご飯など食べてお喋りしたいという気持ちはある。
    とまぁ、一葉ちゃん(仮名)もそんな感じだった。

    先日、ご飯を食べに行ったところ、男女の関係を持ち込まれては困る、というような感じで、フラれたのだ。

    その日、某中華料理店で落ち合った時点で一葉ちゃんの表情が重くて、ぜんぜん愉しそうじゃなかった。これまで2回ほどランチをご一緒して、その時は和気あいあいとお喋りし、時折見せてくれる笑顔に拙者は喜んでいたのに。

    おかしいなと思いつつ、いつもの軽い雑談を一方的にしながら食事をし、そして食べ終わった頃、意を決したように一葉ちゃんは重い口を開いた。
    「前回、『二人きりで遊びに行くようなことに誘っても差し支えないか』と聞かれて、安易に『はい』と答えてしまいましたけど、あれって、異性としてのお誘いだったんですか? 友達としてなら良かったんですけど、あの後いろいろ考えてしまって……」
    これを聞いた拙者はアタフタした。
    好意はあるよ、単純な友達として見てるわけではなく異性として見ている。しかし好意のあった女性と友達関係が続いてる経験もあるし、貴方が望まぬのならこれまでと同じ関係でいいし。そもそも好きな子しか食事に誘わんけど、そういうのを加味して貴方に最適な距離を保ってくれたらいいのに。
    というようなことが頭の中に巡ったはずだが、その時に最適な言葉が見つからず、
    「好意はあるけど、分別もあるよ」
    と口から出た。
    でもこれはダメだったみたい。
    一葉ちゃんは好意があるならその気持には添えないと、関係を切る覚悟を決めておられたらしく、その後の態度も受け答えも全部、関係を切ってスッキリしたいとの強い意志が感じられた。
    拙者は、これで終わりか、と察して、一葉ちゃんのどんな所が好きかをお伝えした。
    もちろん彼女の気持ちが変わるはずもなく、むしろ悪化し、つれない態度の彼女を駅まで見送った。

    こんな風になるなんて、ぜんぜん心の準備ができていなくて、急に感情が忙しくなった。
    風光明媚な観光地に独り残され、そこはかとなく哀しかった。
    快晴の空を見て一旦心を落ち着かせ、メッセージを送ってみたけど、「距離を置きたい」とのことで、『置くほど近い距離じゃなかったやん』とか言いたいことはあったけど、貴方の望みがそれならば叶えてあげるのが男の役目だ。

    こうしてフラれました。
    無念。
    笑顔を見せてくれるだけで良かったのになぁ。

    しかし、よくよく考えると、若かりし頃の拙者も女性からの好意を感じた時は、あえて冷たい態度をとったこともあったよな。
    それは相手を傷つけてしまう怖さゆえ。
    期待に応えられないストレスも生まれる。
    分かる。

    ちなみに最近の拙者は、誰からも好意を向けられないのでストレスフリーです(笑)。

    最後に一つだけ言わせて欲しい。
    関係を切るかもしれない相手と直接会って喋ろうとするなんて、一葉ちゃんはとても誠実で良い子でしょう。
    きちんと伝える術を持っていて、素晴らしいよね。
    そんな子を好きだと思う拙者の女性選択眼もまた、素晴らしい。
    自分を袖にした相手を矮小化せず、好きなままで距離を置こう。

    恋人にフラれたわけではないので、心の空洞は小さくて、全ハートの8分の1くらいの隙間かな。
    この隙間に何が入ってくるのか、楽しみにしとく。

    以上。

    ちなみに仮名の一葉ちゃんは、樋口一葉から拝借しました。
    さっき、「にごりえ」を読んでたんやけど、女心くらい難解な文体だった。

  • デートの期待感はへし折られ、それは友情と呼ぶのだ!

    デートの期待感はへし折られ、それは友情と呼ぶのだ!

    女性と二人きりになって、しばらくの時間を過ごしたのに、ロマンティックな感じにならなくて、なんか男として不甲斐ない気持ちになるのは、なんなんだろうな。
    友情と解釈しても良いのだが、それにしては、ざっくばらんさがなくて、拙者の態度は女性に対するそれであり、ぎこちない。

    発端は、女性から「良ければ一緒にランニングしてほしい」という提案をもらったこと。もちろんオッケーなので、そういう返事をする。
    日程調整すると、2月5日になった。

    拙者に気があるのかい?
    などと慮ったりするけれど、こんなのは妄想の類らしく、拙者に対する好意がなさそうなのは、メッセージの内容や頻度でハッキリすることだ。
    だから、シンプルにシンプルに、一緒に走ってくれる相手をお求めのようだし、そのお求めに応えるのは拙者であるべきだ。
    拙者の側も一緒に走ってくれる相手を求めており、良い景色を見た時とか、気になる物があった時に、「いいねー」とか「何だこれは」と言いたい。いつもは独りで走っているので、心のなかで呟き、あるいは独り言を呟き、寒々しいので、願ったり叶ったりのWin-Winなのだ。
    さらには走る場所も万博記念公園をチョイスして、ここは大阪ランナーの聖地的な存在らしく、一度は走ってみたかった。

    幸運にも上手く晴れて、京都からバイクで1時間ほど走り、彼女と待ち合わせ。先方は遅延が発生していたらしく10分遅れでやってきた。前より髪色が派手になっていた。

    早速ランニングをスタートする。
    多くのランナーは外周を走るようだが、拙者たちは遠方から来ているので、入園料を支払い園内を走ることにした。
    外周が5kmと情報を得ていたので、できるだけ長く走れるようと大回りで周る。

    お喋りしながら走るペースは1kmあたり8分で、普段は6分台で走っている拙者には遅いかと思いきや、前日の疲労が残っているのでちょうどよいペース。
    しかし会話はあまり弾まなくて、拙者が一方的に喋り、彼女はしんどそうに相槌を打つ。
    「○○さんは二十代やっけ? エキスポランドの存在を知らんよね?」
    「はい」
    いや、これはトーク内容がつまんないのではなく、走りながら喋るのはそこそこしんどいってことだ。登山で口数が少なくなるのと同じ。

    木々の間を抜けるのも好きだし、モニュメントも面白いけれど、芝生の広場がずーんと広大なことに非日常を感じた。規模の割には人が少なくて、人が小豆サイズに見えるほど遠くまで見渡せて、傍らには一緒に走る人がいて、わーっと手を広げたくなったし、実際にそうした。
    楽しかった。

    一緒に走る人、と表現せざる負えないは、友達と表現するのもおこがましい距離感だから。
    友達以上恋人未満という、微妙な距離感を表現する異性関係の言葉があるが、同じように表現すると、恋人以下友達未満知人以上、くらいの感じだな。
    「一度会ったら友達で、毎日会ったらきょうだいだ」という名言が頭の中にあるのだが、これは明確に否定したい。全然違うぞと。

    太陽の塔を写真に収めたり、小さく咲いた梅を見たりした。
    その後も大回りで走っていると、元の場所にたどり着いた。
    園内なのに意外にも8kmも走れた。
    「こんなに走れると思ってませんでしたー」と、友達未満の君は言った。
    「よく頑張ったね」と、言ったはず。

    その後、ランチもご一緒したけれど、それは本当に空腹を満たす、という感じだったし、ロマンティック要素ゼロ。
    拙者の心にはスカスカの穴が空いているような、なんにも無さ。
    どーなってるのこの島はドーナッツ。

    こうしてロマンスは起こらず、太陽の塔の思い出が残り、友情が育まれ、次回からは友達と表現することにしよう。
    知人以上から友達に昇格したことにしよう。
    そしてこの際だから、ランニング友達をたくさん増やすことにしよう。
    これでハッピーエンドだ。

    拙者はエキスポシティとかに行っても、あるいはUSJとかに行っても、さほど楽しめないので、ランニングしてビール飲んで美味しいご飯を食べるのがいい。
    「一度走ったら友達で、毎日走ったら義兄弟だ」
    という名言を採用して、今後も楽しめるように頑張る。

    以上。