最近は人間関係が楽で、常に余裕のある状態を保とうと心がけているし、勝ち負けも、人からの評価も、目標達成もどうでも良くなってきた。
何者にも成れなかったし、何者かに成ることをほとんど諦めて、そんな場所に拙者は立っている。

これまではけっこうしんどかったよな。
だって何者かに成りたかったから。
近いのから順番に言うと、ここ2年間は小説家になりたかったし、その前は小屋暮らし最強マンになりたかったし、その前は自分の店を持ちたかったし、その前はダメな奴じゃないと証明したかった。
しかし何者にも成れぬまま、想いが潰えてしまった。

まぁ一応、映画の原作者として名は刻まれているし、小屋暮らしは新聞にも取り上げられたし、素敵な女性の彼氏だったこともあるし、誰かから少し尊敬されていることもあるので、誰かにとってみれば何者かではあるかもしれない。
だけれど、自分で思い描いた何者かには成れていない。
あの日、歯を食いしばりながら夕日に向かって走って、「何者かになってやる」と叫んだ、その何者かには成れていないし、その日の記憶もないし、たぶん叫んだこともない。そういう気持ちだったってこと。

今でも小説家になろうとはしているが、とりあえず持っている夢くらいで、自分のアイデンティティをぶっこんだりはしていない。
「小説家に成らなければ、自分が生きる意味などない」って昔ならば思い込んだところだが、今は「愉しんで続けられた先にあるかな~」と成れても成れなくても自分の延長線上という感じ。

今は何者かに成ることよりも、健康でいることや余裕を持つことに価値を置いている。
いつもニコニコしていられる余裕、誰かをスゴイなって認められる余裕、手を差し伸べられる余裕、さっさと手放せる余裕。これらを持つことが大人って感じがするし、評価を得るよりも上位の価値を置くようになった。
これが、何者にも成れなかった、と認めてからの世界かなって思う。

40を超えて体力がなくなり、価値観を変えなきゃならんから変わったのかもしれんし、小説をたくさん読んでるおかげかもしれんし、そこそこやりたいことにチャレンジしてきたせいかもしれん。
とにかく変わったし、やっと楽になってきた。

誰からも愛されない。それでも何かを一方的に愛し続ける余裕を持とうと思う。
不惑ってのはこういうことかもしれんよね。

以上。

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投稿者: 石黒わらじろう

京都の古い民家で暮らしている。 趣味はランニングとブログと盆踊りを含むフォークダンス。 別名義で書いた小説は映画の原作として採用された。 自分で建てた小屋にて暮らしていたことがある強靭な狂人。 地球にも自分にも健康な生活がしたい。

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