日々意味不明なことを書いておりますが、たまには世界の美しさを描写したい。
みにくき我が心理を描写しすぎて、風景描写は不得手なのだが、何かしらの感動を呼ぼうとするのならば、美しき風景に頼るほかない。
とはいえ、見る目が濁っておるので、美しさを美しさと感じれず、庭に出て、ハラリハラリと舞う雪を見ても、ほころび始めた梅花を見ても、今日は寒いなぁと生活感ばかり漂わせてしまう。
困った困った。
世界の美しさを描写できぬのは、部屋が汚いからではあるまいか?
こんな部屋にいて、美しい文章が書けるはずなかろう。
いやいやそれは関係ないぞ。
美しい部屋に住み、服を着飾ったとしても、美しい文章が書けるとは限らぬ。
今日は少しだけ掃除をし、スカッとなった部分はあるが、逆に汚い部分が目立ち始める。
この世界は厄介にできておる。
ゴミの中のゴミは目立たないが、きれいな場所のゴミは目立つ。さりとてゴミの中の薔薇はもはやゴミであるし、ゴミもちゃんと分別すれば資源となる。
とかく掃除は面倒くさい。
ルーズな家庭で育ったゆえ、美意識に欠ける。
ローズが咲き誇る家庭で育ちたかったものだ。
美しい風景といえば、「ああこの景色を君にも見せたかったな」と思う時がチャンスなんだろうな。
最近では簡単にシャッターを切ってしまい、ディスプレイに映るそれを見て、「ああ、上手く撮れないな」と思うだけで、言葉で表現しようという意欲がそもそもない。
自分の好きな景色くらい、言葉で表現できるくらい自由に生きたいものだ。
たとえば、琵琶湖の湖西の和邇あたりから蓬莱に向かう時の比良山の迫りくる様子とか、泉涌寺の総門の前にある段の高低差は物語が生まれそうなのとか、宇治橋から中の島や塔の島を望む風光明媚さとか、旅から帰ってきた時の大手筋のゴチャゴチャした安心感とか、裏稲荷の大岩大神の不思議な感じとか、言葉で上手く伝えたことがなく、不自由。
技術がなくて不自由。
これからは、心と言葉で記憶していこうと決意を新たにし、いつか美しき風景描写が書けるようにと願い、たぶんすぐに忘れるだろうなぁと諦めつつ、もう寝ようと思う。
以上。
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