生きるセンスもないし、走るセンスもないのだが、だからこそ苦労を言語化できるというメリットはあると思う。

拙者はランニング歴が15年くらいになりそうだが、いまだに平均よりは上という程度の走力で、走るセンスがない。
センスのある人がたまにいて、そういう人らは特に練習してないのに速く走れるのだ。本能的にか、幼少期の経験か、骨格か、筋肉か、何か分からないが、たまにいる。

そもそも、拙者はセンスがない上に頭も悪い。
走ることを甘く見ていたのだ。
まず、走ることは難しいと捉えるべきだった。

人間は幼少期の頃から走る機会に遭遇する。鬼ごっこしたり、野犬から逃げたり、駆け込み乗車したり、河原の道を自転車で走る君を追いかけたり。
誰しもが走る経験があるので、走ったら走れる、という認識をみんな持ってる。
だがこの考えは甘かった。

このところ拙者はペラ底シューズと呼んでいる、ソールの薄いランニングシューズを履くようになった。購入当初は盆踊りでも使えるかもと思った。

しかし走ってみると、めちゃめちゃ足にダメージがくる。足首が痛いし、ふくらはぎがキンキンになる。
「何だこれは! 不良品やないか!」
と、しばらくは考えた。
だが、調べてみるとフォームを正せばダメージが減ると知った。
そして、恐る恐るペラ底シューズで走るうちに、フォームがどうあるべきか、着地の際には何を気をつけるべきかなど、走り方が分かってきた。
いまだに速くは走れないのだが、以前より疲れが残らなくなってきたのである。
どうやら太ももやおしりの筋肉が使えるようになってきたらしい。
長く速く走れる人や、毎日長距離を走れる人は超人だと思っていたけれど、自分とは違う筋肉で走っていたのだと理解した。

機能的なシューズに守られていたことや、しかしそのために悪いフォームが温存されてきたこと、長距離を走るには一番太い筋肉を使うしかないことがよく分かった。走るのは難しいのだ。
短距離走だったら全身のあらゆる筋力を動員して速さを競うのだと思うが、長距離では使うべきじゃない筋肉があるようだ。
あるいは若いうちなら、無茶な走り方でもダメージを避けられ、回復も早かったかもしれないが、40にもなれば気をつけないと取り返しがつかないくらい駄目になる。

人生も長距離だよな、って思う。
短期決戦や若いうちなら、自分の全部を注ぎ込んで無理して勝てたかもしれないが、同じようにやり続けるのはかなりしんどい。
長時間動かせる筋肉みたいな自分の能力は何なのか?
それは、ずっと楽しく続けられること、ずっと考えてても飽きないこと、異常に集中できること、そういうのかなぁ。
拙者は生きるセンスもなくて、いろいろと甘く見すぎるところがあるのでなんでもやりたがるが、一番太い部分を使って生きねばなぁと思っているところ。
逆に、弱い部分を使わずに生きねばならないのかもしれん。

以上

募集中のイベントはありません

投稿者: 石黒わらじろう

京都の古い民家で暮らしている。 趣味はランニングとブログと盆踊りを含むフォークダンス。 別名義で書いた小説は映画の原作として採用された。 自分で建てた小屋にて暮らしていたことがある強靭な狂人。 地球にも自分にも健康な生活がしたい。

ディスカッションに参加

2件のコメント

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

  1. 東京オリンピックでは靴を履いて優勝のアベベ思い出しました。前回のローマははだしで走った人です。アフリカの人たちは基本はだしが多かったようですね。現代はきちんとした靴を履いてますが、原石の子どもははだしでしょうね。私は中学生の2年間自転車で12kmを通学して走る筋肉でなく太ももを鍛えてしまいました。それが功を奏したのか高校は4kmのとこに通いましたが、学校行事で50km競歩(マラソン)があり、上位に入りました。

    1. 小さい頃に裸足で鍛えるのは良いと思います。
      50キロはとんでもないですね。フルマラソンが最高なので、未踏の領域です。
      今のマラソンは靴の性能で記録が左右されるようで、なんだか腑に落ちないところがありますね。